2012年5月 6日 (日)

清正公大祭のころ

2012_0505_13e_2                    (高野山東京別院の裏手から東禅寺へ)

5月5日に、覚林寺の清正公大祭に賑わう高輪を訪ねる。
学生時代までを過ごした高輪とは縁が切れることはないのだが、ゴールデンウィークの最後に、ふと足が向いた。きっかけが必要なのだが、清正公大祭があり、それで充分である。何年かに一度、その変化を感じつつ、自分の歴史を辿りながら路地を歩く。

自分だけで、走り回った頃の記憶を手繰ることが出来れば、それでいいのだが、思わず同級生とも顔を合わせることもある。
今回は、地元の商店で、昔話しを伺うこともできた。いろいろと伺いたいところだが、営業妨害になりそうなので差し控える。

2012_0505_15e先の報道で、旧衆議院高輪議員宿舎を都が購入することが報じられ、白金から高輪に至る計画道路の動向が気に掛かる。未着手の区間だが、動き出すのだろうか。
完成すれば、地域を南北に分割し、その息遣いに、大きな変化をもたらすだろう。むろん、ここ数年のこととは思えないが、近辺を、もう一度歩いておきたかった。

第一京浜から東禅寺参道を経て、高野山東京別院の裏手を辿る。昔の記憶を遮るように、擁壁がそびえる。桂坂を高輪台小学校裏で横断し、大改修を行った高輪台小学校脇の旧道を辿る。正門脇の、民家が忽然と消え失せ、緑地になっている。戦前からかどうかは不明だが、広い敷地の民家だった。小学校敷地の一角を占めていたのには、何か由縁がありそうではあった。

2012_0505_26eその先の高輪浴場は消えた。1年ほど前のことらしい。
その向かいのケーキ屋さんホーリーは健在だ。帰り際に店内をのぞくと、サバランがあと2個。これを迷わず購入、何十年ぶりかの味である。
川越までの土産とは言えなかったが、保冷剤をお願いし、大切に持ち帰った。帰宅後、早速、賞味したが、子供の頃のようには、はっきりとお酒の香りは感じなかった。スプーンですくって食べると、のどの奥にお酒のテイストがはっきりと残ったように思うが、何十年かの時の経過が、単純に、それだけでは物足りない飲兵衛にしたということだろう。

高輪浴場も消えたが、その前には薬局がありホーリーの隣には、鶏肉の加賀屋さん、二本榎通りの角には近藤文具店も記憶の中だけになった。正確に言えば、加賀屋さんのことは、ホーリーの奥さんに指摘されたのだが。

二本榎通りを辿り、天神坂を下ると、覚林寺清正公様へのお参りをするために、桜田通りを渡る。境内は整理され、昔より夜店の数が少ないだろうか、子供が目を惹く夜店も見当たらない。その昔、境内の夜店でこだわったのは「吹き矢」だった。いろいろな模様のプラスチックのパイプが性能を競っていた。パイプに込める矢は、紙を円錐状に丸めたもの。パイプを買うと、いくつか付けてくれたと思う。店頭でデモを見せられて買っているので、早く持って帰りたかった。そんな夜店をひやかすのは、やはり夜店のランプが昼間と違う世界を演出する、日暮れからがお気に入りであった。

最後に触れておきたいのは、天神坂から覚林寺に辿り着くまで、反対側の川岸を目指すかのように桜田通りを渡って感じること。

過去の記事で、かつて天神坂が覚林寺の参道として、横断歩道なくして、機能していたことに触れてみた。また、ここに、食い違った道を貫通し、現桜田通りが開削され、昭和30年代末に拡幅工事がなされたこと。明治時代にまで遡ることは荷が重いが、昭和30年代末の拡幅工事によって、変化したであろう街の息遣いを探ることができないだろうか、そう思っている。

子供の頃、桜田通り沿いに、何カ所かのネットフェンスが張られた更地があった。当時、忽然と現れる湿り気を帯びた空き地に、何か不思議を感じていたが、桜田通りの拡幅の前と後に思いを致せば、そこにあったいくつかの生活が断ち切られ、どこかに旅立った後の姿だったのだろうか。その代表が、明治時代からあったという白金郵便局の跡地ではなかったのかと思う。ともかく広かった。
壊れた波板トタンの隙間から忍び込み、廃墟のような空き地で遊んだ記憶も、その過渡期のことだったのだろうか。

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2012年4月24日 (火)

外秩父七峰縦走ハイキング大会 その2

E2012_04220008_34月22日、いよいよ初参加である。これまで、ブログの体験記事を拝見しながら、踏破のためのシミュレーションを行ってきた。あとは、どれだけ自分のピッチで歩き通せるかということ。当日は、そんな覚悟で歩き始めた。

当日、午後3時から雨模様という予報の下、午前5時20分の朝一番の電車に乗り込んだ。扉が開いて車内を見回すと、ハイキングで小川町駅を目指す方が99%と見える。朝早いせいなのか、これから始まる、42km余に亘る夕刻までの戦いが頭を過ぎっているのか、気楽なハイキング気分ではなさそうである。乗車駅では、シートに座れる余地があったが、結局、小川町駅まで立っていた。
参戦前に、いささか興奮気味だったろうか。

E2012_04220002午前5時53分、小川町駅に到着。4番線であって、改札前のホームではない。素早く改札を出るためのシナリオを描いていたが、やや計算が狂う。そのため、気忙しく改札を出ると、ゲート前から、駅前ロータリーを半周して、商店街まで参加者の列が延びている。意気込みの違いということか、午後早い時間から雨模様の予報もあり、出足が早いのだろう。とりあえず、私は始発で駆けつけたわけで、これ以上望むべくもない。

6時から受け付けを開始したのではないか。6時過ぎには列の先頭が動いた。Bコースの東武竹沢駅スタートを画策するためには6時11分小川町駅発に乗りたい。次の電車は20分後である。受付を済ませたのは6時12分、間に合わない。初回参加でもあるし、Aコースを正面攻略することにする。

ということで、駅前を後に出発するが、Aコースを歩き始めている方々のピッチがともかく速い。スタート直後は付いていったが、ブレーキを掛ける。何処まで歩くことが出来るか分からないが、巡航速度を保たないと、息切れするのは目に見えている。

E2012_042200066時45分に登山口を入る。7時05分、いわゆる渋滞に捕まる。これが石尊山手前の鎖場渋滞かと覚悟したが、7時35分には鎖場を通過する。

CP1の官ノ倉山の山頂には、登ることは求められていない。正直、勢いで登頂してしまい、直下に下るルートを辿りながら、後悔した。頂上から、やや、下山したところ、Bコースとの合流点がCP1となっていた。7時55分に通過。下山ルートには、ロープが張られた渋滞ポイントもあったが、今回、仮設ではなく、しっかりとしたポールが設置され、太いロープが張られていた。その進歩には感心する。8時13分、下山完了。

8時35分には「和紙の里」に到着。その途中、2年目に途中から参戦される方々を乗せたバスに追い抜かれる。いささか、複雑な気持ちである。「和紙の里」に到着後は、予定通り最初の飲食とトイレを済ませ、気合いを入れて出発。その後、萩平丁字路まで6kmほど林道を辿るが、勾配はさほど厳しくはない。ひたすらマイペースを貫く。林道の途中、右手の山道に入る指示がある、9時30分。山道を抜けると再び舗装道路にる戻る。萩平という集落の先に丁字路が見える。突き当たりに売店と案内スタッフ、10時05分。ここが萩平丁字路というところか。左折すると、右側に「笠山登山口」の表示。

11時10分、CP2の笠山を通過。笠山へのアプローチから笠山峠までは前半のピークだと言われる。登りは比較的淡々とクリアーしていったものの、下りの局面では、膝が限界に近づきつつあるのを感じていた。いわゆる持久力に問題があるのか、下りアプローチの歩き方に問題があるのか。下りの重心の配分など、研究すべきことはある。体重は大分落としたので、油断していたかもしれない。きつい傾斜を駆け下りるようなことは出来ないのはもちろん、ステップを確認しながら、いたわるように降りていく。各所の渋滞の他に、その後の下りのアプローチでも時間を大分ロスしただろう。

笠山峠から、CP3の堂平山までは、新ルートで路面は良好との表示があった。ここで、すでに霧雨の様相となっていたので、レインウエアを用意し、11時40分に堂平山へのアプローチを開始する。

E2012_04220020_2CP3の堂平山には12時04分、霧が立ちこめ、霧雨ではなく小雨模様になりつつあった。本来、ここが見通しがよいところで、ここまで登ってきた充実感を感じられるところのはずだが、雨模様の心配が先にたつ。予定通り、残りの食料を食べ、お隣のCP4剣ヶ峰に向かう。

雨の中、戦意も後退し、のんびりとCP4の剣ヶ峰までの平坦な道を辿る、12時24分。丸太階段がある。その後、白石峠にもそびえているが、比較的楽観的にクリアーする。特に、雨模様だと、危険でお勧めできないが、丸太階段の脇を辿ることは放棄し、壊れかかったところもある丸太を直接ステップし、登って行った。現在使用しているトレッキングシューズの靴底を信用していることもあるが、迷わず、直接ステップして登って行った。このあたりは、あくまで自己責任で。

E2012_04220025_2剣ヶ峰から白石峠に到着、12時40分。ここで初めてエスケープルートのことが、頭を過ぎった。標高が、やや落ちたせいか、雨も感じなくなった。2年連続の挑戦で、次回に続けるにしても、最終判断は次の定峰峠ですることにした。そうと決まれば、目の前にそびえる丸太階段の攻略だが、前述とおり、比較的楽観的にクリアーする。リサーチの175段を数えながら。

E2012_04220027_2その後、平坦な縦走路を挟みながら、アップダウンを消化する。定峰峠の手前では、一気に高度を落とす下りアプローチが膝にこたえる。ステンレスパイプの手摺りが設置されたアプローチもあり、身体を預けて降りていく。
峠の茶屋前には13時30分到着。とりあえず、手持ちの飲料は切れたので、ペットボトルを購入。山の中で高い買い物かと思ったが、自動販売機が並び、そこそこの価格であった。考えてみれば、車で上がって来るのはたやすいところであり、山の中を必死に歩いて来たのは、こっちの勝手というのが、ほんとうのところか。

しばらく、クールダウンして、後半のアプローチを決める。雨はやんでいる。残りの行程は、前半に比べて楽だろうとも思える。登山口を見上げるが、今年はここまでで撤退することとした。

E2012_04220039残りは、白石車庫までのエスケープルートを辿る。最後の山道を抜け、舗装道路を歩き始めたところで、小雨が降り始める、バス停に辿り着く頃、14時20分頃には小雨はしっかりとした雨脚となり、傘が手放せなくなった。
それにしても、次回、定峰峠から完歩を目指すとすれば、エスケープルートを戻る必要がある。定峰峠まで戻るのも、それはそれで大変そうだが、それは来年考えよう。

最後に、今回のために衝動買いした歩数計のデータは、小川町駅前から白石車庫バス停までで歩行距離は23.79km(東武鉄道の表示は24.0km) 歩数39,654歩。3Dセンサーの威力で歩行速度の表示もされる。2分毎の平均速度、その累積値の平均ということらしいが、3.95km/h。定峰峠からゴールまで、ほぼ20kmとすれば、このままのペースでも何とかゴールできたような気もする。そう思えるだけでも、今回はよしとしよう。

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2012年4月13日 (金)

閑話*高輪警察署前のこと

学生時代までを過ごした高輪のこと。
これまで、幾度も触れましたが、少し違う角度で。

目黒駅前から大井競馬場へ向かう都バスは、明治学院前の停留所を後にすれば、桜田通りを横切り、緩やかな傾斜の坂道を辿り、高輪警察署前で二本榎通りと交差する交差点を右折する。そのまま交差点を直進すれば、東側の傾斜地を下り、桂坂として山手線の内側を併走する第一京浜に至る。右折の後、二本榎通りの尾根道を南下した都バスは、品川駅を目指して柘榴坂を下って行く。

目黒駅前から大井競馬場に向かうこの路線は、いったい何時頃からのものだろうか。ネット上で資料を参照すると、昭和27年5月より既存路線の延長として、品川駅から目黒駅までを延伸されたことが分かる。大井競馬場という名前に、何となく違和感を覚えていたのは事実だが、二本榎を縦断する品川駅と目黒駅間のアクセスとして、親しまれていた。

この交差点を舞台に、思い出すことがある。

そのひとつは、小さな頃、高輪警察署を目指して都バスでこの坂を登るとき、運転手さんの後ろに席に占めることができたときには、やや緊張感を覚えた。この交差点を右折する際、目の当たりにすることができる光景を見逃さないためである。

その頃の都バスは、ランプによるウインカーだけではなく、メカニカル式の方向指示器が実装されていた。高輪警察署前の交差点にさしかかると、バスの車体の脇に仕舞われていた矢印が、ひょいと持ち上がり、右側を指し示すのが見えた。それは、運転手さんの意志を指し示すかのように、その座席脇で静かに持ち上がった。他の大型車両や、もともと乗用車にもあったものなのか、そのメカニックとしての来歴については知識を持ち合わせていないが、今思えば、どこかのんびりとした光景であった。

交差点での右折が近づき、矢印が律儀に持ち上がるのを目の当たりにすると、子供心に、妙な納得感があった。その後、メカニカル式の方向指示器は失われて行き、必ず遭遇する光景ではなくなった。子供にとっては、はずれが混じるようになると、運転手さんの後ろの席に座ることへの関心は、いつのまにか薄れていった。

高輪警察署前の交差点には、高輪消防署があった。現在も二本榎出張所として現存しているものの、まだ本署であったころである。消防署の記憶は、洗ったホースが干してあった風景だろうか。望楼の手摺りから下げてあったものだと思うが、ホースを引っ張り上げる場面には遭遇したことがない。丸めて階段を持ち上げていたとすれば、それはそれで訓練になっていたかもしれない。

高輪警察署そのものも、交差点角に面した玄関に、階段を数段上がる権威主義的な旧庁舎の姿が私の原風景である。警視庁のHP上に、高輪警察署のページがあり、その写真も見ることができる。昭和5年建築で、昭和52年に現庁舎へ建て替えとある。

そのころ、警察署の道場では、地元の少年に武道を教えていた。私もそのひとりに加わることになった。警察署の玄関を入るとき、大きな声で挨拶をした。今なら迷惑そうだが、そう指導されていたと思う。玄関付近の署員も返答してくれたような気がする。正面で挨拶をし、左奥のすり減った階段を二階に上がると、階段のすぐ脇が道場だった。階段の足許には、重そうな機動隊の盾が並んでいた。学生運動という言葉が、現実味を帯びていた時代である。
練習後、まっすぐ家に帰らず、署内の自販機でペプシコーラを飲んだこともあった。ペプシしかなかったと思う。小さなガラス窓を開け、瓶を引っ張り出す仕掛けのあれである。瓶を引っ張り出して、自販機の栓抜きで王冠を開ける行為だけで満足感が漂ったが、正直、飲み干すのは大義だった。家はそう遠くもなく、小学生としてはいささか生意気であったろうか。

交差点の反対側の角には、いつのころだったろうか、明隣堂という書店が店舗を構えた。当ブログにコメントを頂いた方の記憶によれば、生け垣がある民家があったところである。そのような気もするのだが、いまひとつ自信がない。明隣堂書店の風景については、以前描写している。小学校低学年のころだろうか、工事が始まったころは興味津々であった。街中にそこそこの規模の書店が現れるのは、新しい文化の風が吹いたような気がした。たぶんそうであったと思う。歩道に面してショーウインドウがあり、雑誌等がディスプレイできるようになっていた。店舗内は吹き抜けで、コンパクトな螺旋階段を設えた二階は回廊のような形で、ぐるりと書架が並んでいた。明隣堂書店は姿を消したが、いまでも、その書架から手に取って、清水の舞台から飛び降りたつもりで買った古典の参考図書が1冊だけ手元に残る。

残る交差点の一角は、いまは何もない開放空間になっている。
マンション敷地となった現在の様子については、何も描写することはできない。私がいたころは高輪町栄会であったが、今、メリーロード高輪として作成された「高輪散歩」といウォーキングマップが手元にある。その末尾に掲載された一枚の写真がある。

そこには「1950 takanawa choeikai」とある。生まれる前ではあるが、私の記憶の風景と大きな違いはない。その写真の左側が、残された高輪警察署前の最後の交差点の一角である。正確には、交差点角の店舗は切れているようだが、そこにあった街の息遣いを伝えている。角の店舗は、何度か代わっていると思うが、ある日、小さなケーキ屋さんになった。写真に残された風景は、オオヂ靴店さんのとなりは八百松さん、その先には後の動物病院、蕎麦屋の新月さんが判別できる。また、手前にはローマの円柱を模したような意匠の街路灯が見える。全てが、生活の息遣いの中にあった。

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2012年4月 9日 (月)

閑話*高輪台小学校のこと

学生時代までを過ごした高輪のこと。
これまで、幾度も触れましたが、少し違う角度で。

昭和40年代、高輪台小学校に通っていた頃。
昭和10年の竣工当時の雰囲気を残していたのではないか。
その頃を知る由もないわけですが、今考えても、そう思います。

また、同時に、在学中にはいくつもの変化がありました。

入学の頃、教室は1階のプール横、いちばん奥の教室でした。
机も椅子も木製で、今から思えば田舎の分校のイメージだったかもしれません。机の天板が蓋になっていて、奥が蝶番、手前を持ち上げる、あのタイプです。それは、あまり時間は掛かりませんでしたが、程なく引退となりました。
担任の教師から、もうすぐ、新しいのが来るよと言われていました。ある日登校すると、教室に、現在の机や椅子と同じ、合板の天板にスチールのパイプの足がついた机と椅子が、ビニールに巻かれたまま、積まれていた光景を思い出します。あっけない選手交代でした。確かに、間違いなく新品の机と椅子を割り当てられたのですが、その特別の感慨は覚えていません。その交代の意味は、あまり伝わって来なかったような気もします。

同じく入学の頃の、校庭で撮ったクラス写真があります。
背景の校舎には、各教室から延びる煙突が這い回っています。
その頃、暖房はダルマストーブでした。
1年生の頃は、どうだっか覚えていませんが、上級生になれば、毎朝、専用のバケツを下げ、校庭に面した地下の部屋に、1日分のコークスを貰いに行く当番がありました。階段を降りていくと、用務員のおじさんが、スコップですくってくれた。むろん、終業後の火を落としてから始末があったはずですが、これは覚えていません。これは、高学年になってからのことだと思いましたが、大型のガスストーブに代替えされました。これは教室の雰囲気をがらっと変えたと言えます。

何時の頃か、教室や廊下の床が張り替えられました。
歩くと廊下がきしむような板張りの床。小さな油のタンクと油を延ばすためのフェルトのようなものが先に付いた、モップのような道具で、メンテナンスをしました。油のにおいが嫌いではなく、油引きの役は好きでした。
明るい色の寄せ木模様の床になったのは、何時の頃でしょうか。
表面の塗装か、ワックスのせいか分かりませんが、当初、大変扱いづらいものでした。つまり、水分に極度に弱い。汚れたら始末が悪い。そんなイメージが先行していました。

プールは昭和11年からあったそうですが、入り口の階段は2カ所あり、それぞれ階段下に足を洗うスペースがあったと思います。何時の頃か、校舎の壁面を利用したシャワーが新設されたのはいいのですが、どうも水道直結であったらしく、ともかく冷たい。充分に身体を冷やして、プールサイドに上がりました。理屈には合っているのだろうけれど、水が出る瞬間、思わず身体をこわばらせたことを思い出します。

最近、改修工事を経て姿を変えたと聞いていますが、あの図画工作室はどうなったでしょう。東側からの十分な採光が可能な大きな窓があった。生徒用には、四方に万力が付いた、四人用の机が設えてあった。階段毎に違う色に着色された太い手摺りはどうなったでしょう。在学当時も、既にあまり活用されていなかったような気がしますが、廊下の屈曲部分にあったガラス付きの立派な展示スペースがありましたが、どうなったろう。まさしく、それは昭和10年の竣工時の発想であったであろうことは確かだと思います。

スロープがある校庭側のエントランスの光景も大きく替わりました。東側との高低差のため、高い壁がありましたが、エントランスのスロープを削り込むため、その角部分が、船の舳先のように尖っていました。何とはなしに、その舳先に立ってみました。個性的ではありましたが、その風景はなくなったようです。

二本榎通りから高輪台小学校への道を辿るには、生花店と文具店が角の両側にありました。高松中学校の頃も含めて、通学途中に立ち寄った文具店はなく、記憶の中だけの光景になりました。

校門をくぐれば、大規模改修で姿を消した旧体育館。団塊の世代が小学生の頃でしょうか、生徒増が顕著だった頃、その屋上部分に教室を仮設して、しのいだとか。教室跡と思われる一角は、校舎の3階部分、だったと思いますが、廊下が繋がっていたところだろうと思います。私が在学していた頃は、ひとけがない、やや不気味なところでした。ただ、女性事務員の方がその一角で、事務を執っていて、一度だけ訪ねたことを思い出します。校庭側には、建物と一体となった外階段があり、その先を探検すべきであったと悔やんでいます。

校門の先、左側の植え込みには、埴輪がいくつかありました。トーテンポール、のようなものもあったような気がしますが、これな気のせいかも知れません。その先には、プールの角あたりに小鳥の大きなケージがありました。小鳥のことは思い出せませんが、小屋はそこにありましたので、生き物係がいたのでしょうね。

校舎の入り口を入れば、天井が高く、生徒用の下駄箱が全て並んで居ました。左側には校舎の中心に大きな螺旋階段があり、給食のパンを焼くにおいが漂っていました。下駄箱の間を抜ければ、校庭に。右側には時計台下の階段があり、校庭側からの採光が、大変明るかった。

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2012年3月28日 (水)

外秩父七峰縦走ハイキング大会のこと

第27回外秩父七峰縦走ハイキングの参加カードが、本日到着。
先月10日に申し込みをしていたが、参加カードにある受付番号は2300番台である。最終的にはどの位だろうか

42Kmというヴォリュームに二の足を踏んでいたが、とりあえず、完歩を目標にエントリー。途中のエスケープルートも用意されているが、できれば一回完歩を目指したいもの。ともかくペース配分に努めることが肝だろうと思う。

天候やらが原因で、コースコンディションに不安があれば思案のしどころだが、とりあえず、当日、午前六時には小川町駅前の受付の列に加わるつもりである。

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2012年3月24日 (土)

ユベール・ロベール-時間の庭

Image0002美術展の前売券というものを、初めて買ったような気がする。そろそろと思い、前売券を取り出して上野の国立西洋美術館に向かった。

今回のユベール・ロベールが追い求めた、ローマの古代遺跡を中心にしたモティーフには、以前から、何故か心を揺さぶられる。

ローマの衰亡の歴史へのアプローチには、打ち捨てられた遺跡が語るものを手繰ることが、常であったが、本美術展の作品を見て、やや異なるアプローチを抱いた。作品は実景と、空想的風景がある。18C のユベール・ロベールの視点で描かれる作品に中には、その廃墟、若しくは廃墟と自然で構成される世界に生きる人物像と、彼らにとっては、歴史のひとこまに過ぎないかのようなローマ遺跡の存在を感じる。当たり前のことかもしれないが、その絵画の中で生きる人物像が、その世界に脈動を与える。廃墟は、彼が描く空想的風景画の背景としてのみ生命を与えられているかのようにも見える。

油彩の展示が主体ではない。サンギーヌ(赤チョーク)素描を中心としているのが、慣れないといえば確かに慣れないのだが、その筆致を見ると、画家が作品に取り組み、描き上げる、その場に立ち会うような緊張感も感じる。観客としては、いわば完成された油彩とは違うアプローチが求められるところか。

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2012年3月16日 (金)

筑波山*駅からハイキングへ

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先週末、今年になってから、早くも四度目のウォーキング。
上がりそうで上がらない小雨の中、JRの「駅からハイキング」へ。
筑波山の山麓を歩き回る。

一昨年から、関東近郊で街歩き、里山歩き、トレッキング等々、機会を見て歩き回ったつもりだが、意図して残した記録を整理すると、通算、350kmほどに積み上がった。ウエストが余るようになったズボンと、表情が変わったように見えるここ数年の証明写真が、その実績を物語る。

生活圏ではない街並みの空気を吸いながら歩くことや、ゴールを目指しひたすら山中を歩くことが、生活のリズムとなってきたのも事実だが、どこまで、ピッチを上げたものか。

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2012年2月 5日 (日)

福島*新野地温泉 相模屋旅館

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    (朝、吹雪模様の中、宿の玄関前から鬼面山を遠望する)

今年も恒例の会合に出掛けた。
諸先輩が並ぶ中、その末席を陣取り(汚してともいう)、冬の温泉を目指す。いつまで経っても末席のままだが、永年ご厚誼を戴いていることが全てであって、この機会を得ていることに感謝しながら参加する。

2012_01280005e今回は、福島県の新野地温泉の相模屋旅館に伺った。
福島駅西口から、旅館の車に乗り込み50分程。
駅前の残雪からは想像できない深い雪景色の中に、隣り合った野地温泉の奥、「海抜1200m安達太良山塊・箕輪山の北、鬼面山の中腹を通り福島市と猪苗代町を結ぶ、県道30号線沿いのブナの原生林に囲まれた一軒宿(宿HP)」がある。

2012_01280001e_4到着後、ウエルカムドリンクで美味しいリンゴジュースが供された。リンゴと聞いたはずだが、初めて味わうテイストな様な気もする、新鮮な味だった。
案内された三階の、二重窓が施されて暖かな部屋から見える雪景色は、どうみても吹雪いていたが、夜半から早朝への気温の低下を考えると、一階の外れにあるという、昔の佇まいを残す内風呂、野天風呂は、日没前に攻略することに。

一階の内風呂は、野天風呂への出口の手前にある。
窓は凍り付き、外にはつららが下がる。建て付けは悪く、隙間からは冷気が忍び込んで来る。湯船の頭上にある、屋根に開いた湯気抜きからは、粉雪が舞い降りてくる。

2012_01280006e_3泉質は「単純硫黄化水素泉」で、白濁した、ややさらっとした泉質である。外気温とそう違わないのではないかと思わせるほど、風呂場の室温が低いせいか、湯船に足を浸した瞬間にはやや熱めに感じるものの、肩まで浸かれば、誠に具合がいい。芯まで温まる湯で、その後、雪景色の野天に向かうという筋書きがある。

夕食は部屋食で、一軒宿の温泉宿としては、品数もボリュームも充分ではないだろうか。クチコミの評価は分かれるようだが、期待するところの違いは致し方ないところ。朝食は、久方振りに、きれいに片付け、満足だった。

やや驚いたのは、宿泊客の多さである。土曜日でもあり、確かに地元の団体さんも宿泊していたようだが、宿の規模からしても稼働率は高かったろう。秘湯の看板を掲げているが、宿泊棟は大変きれいで、内風呂、野天風呂が昔の佇まいを残していることが支持されているのだろうか。夏は登山のベースとしても利用されるようでもあり、野天風呂と眺望を堪能する宿泊客とともに、その頃が更に賑わうのだろう。

土産は、福島駅西口3分ほどの「コラッセふくしま」の1階にある福島県観光物産館に立ち寄った。品数が豊富であり、新幹線の時間を気にしながら、土産を捜すのには、迷わず訪ねるべきだろう。

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2012年1月 9日 (月)

新年を迎えて

年を越してから知ったことがある。

AMラジオから流れた保育園児達の歌声。
その歌声に耳を傾けた。
岩手県二戸市にある、ある保育園の園児達である。
声を限りに歌っている曲は「空より高く」、あきらめないでと謳う。
卒園式に使われる一般的な曲であるらしい。

3月19日に卒園式を控えていたが、11日に被災した後、先生方と園児達が、今、何が出来るかというところからスタートし、その歌声の音源をIBC岩手放送に送ったものらしい。

そして、ラジオから流れた歌声は、震災直後の被災地に届いた。被災された方々の耳にとまった園児達の歌声は、その心を確実に揺さぶった。生きる息吹を吹き込んだのではないか。
その力強さは、数ヶ月を経て、私も経験することとなった。

2011年を終え、2012年を迎えるにあたっての言葉をまとめる努力をしてみたが、難しい。3.11以後の心が震えるような経験は、整理がついたとは言い難い。復興の槌音が響くのは、これからであり、未だ始まっていないとも言える。

時の経過は冷徹だが、無念のうちに被災地を離れた方々が、新たな故郷に帰還する日が来るまで、2011.3.11にあったことは忘れない、今は、そう思うことにした。

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2011年12月11日 (日)

高尾山*本年〆の山歩きへ

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高尾山といえば、小学校の遠足以来だが、本年の秋、小学校以来何年目かと思いながら訪れた。そして、今回、本年最後の山歩きとして2度目の高尾山登山を目指した。
定期健康診断で受けた「メタボ」の指摘を返上するため、あちらこちらで歩き回ったが、その流れを来年に繋げたい。

むろん、ケーブルカーではなく、登山道経由で登り下りするのだが、その辺を歩いても10kmには届かない。ロケーションもよく、幼児から、お年を召した方まで、ありとあらゆる年齢層の方が頂上を目指す。トレッキングとしては、距離的に物足りないものがあるが、気軽な調整には好適なコースと見た。その分タイムを気にしながら一気に登り切ることがトライアルとなる。陣馬高原への縦走を企てれば、タフなコースに変貌しそうだが、それは来年の課題にとっておこう。

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2011年11月20日 (日)

雑感*当世流行事情

今は見慣れた風景だが、雑踏の中、携帯やスマホを凝視しながら街角を歩いていく姿が目立つようになった。さすがに、ラッシュ時のターミナル駅で、その様子で階段を上がってきた女性の姿には驚かされたが。

手にした携帯端末に落とす視線が、押し並べて、あたかも端末を拝みながら歩いているように見えるのも不思議な光景だが、すれ違う人波の中でも、するりと避けて歩いて行くのは曲芸のようでもある。人混みの中、避ける気配が感じられないか、避け方が未だぎこちなく、どこか緊張感を漂わせる姿には、こちらが緊張感を覚える瞬間もある。街角のこうした無言の気配りは、当世必須の感性なのだろうと思う。

その風景は、人が往来する街角の息遣いから、どこか意図して途絶させた、その閉じた世界観を主張しているかのごとく見える。
それは、歩きながらゲームをしているわけでもあるまいが、ヴァーチャル環境を手に、リアル環境の街角を、ひとり彷徨しているようにも映る。その一見シームレスな環境の下に、何かが麻痺しているようにも見える。

携帯端末で、常にネットワークに片足を浸している日常は、私には必要以上の拘束と映る。ネットに繋がることは、環境に応じて選択的に指向することが、私には、住み心地がよさそうである。

また、そこには、人混みの中で、街角との関わりを途絶させたことによって生ずる物理的なリスクがある。見方によっては、携帯やスマホを凝視しながら歩き回ることは、そのリスクを、周囲に転嫁していることでもある。

さらに、同じように携帯やスマホを凝視しながら、「自転車」で走行するような行為においては、そこには何ら必然性がない上に、そのリスクが容易に顕在化することは論を待たない。警察による摘発がニュースにもなっているが、それは、眼や耳の不自由な方、足腰の不自由な方、高齢の方などのいわば「交通弱者」に対して、そのリスクがより顕在化しやすい。

そこに思いを致すべきではなかろうか。

そこで、求められることは何か。
それは、僅かばかりの想像力ではないだろうか。

日常生活の中で、交通弱者が、他者の招いたリスクにひるむ瞬間があれば、それは当たり前のことだろうか、何がそうさせるのか。社会生活において協調し、妥当な結果を得るためには、気を配るべきは、誰の責任だろうか。自分の家族が、そのリスクに街中を歩くことをひるんだとき、交通環境の危険性を指摘しても、本人の責任だとは思えないだろう。そこに不条理を感じないだろうか。

自転車の話しは過去にも触れたことがあるので、付言したい。
「無灯火運転」、これは薄暮時から夜間に掛けてランプを点灯させることは、自分の視野を確保するためであるとの誤解があること、自分で回避行動が取れればさえよいとの誤解に繋がる。
実際は、事故を回避するために、対向する歩行者や車に対して、自らの存在を視認させ、注意喚起をするためにランプを点灯する必要性があることの理解が不足している。
「逆送運転」、右折等のために一時反対車線に移るのではなく、右側走行を前提として走行することは、根拠が乏しい自己主張にすぎない。これに類する事象もあるようだが、結局の処、いずれも、想像し得ない挙動から発生するリスクを、他者に転嫁しているだけと映る。それは、法令遵守の以前の問題であると言える。

そんなに難しい話しではない。いろいろな局面において、周囲に許容される限度を試すような自己主張よりも、幼児から高齢の方、障害を持つ方とともに暮らす社会において、その行為は誰のために気を配り、責任を持つべきことなのかということを前提として考えれば、やさしい社会になる、それだけの話しではないだろうか。

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2011年11月14日 (月)

横川*駅からハイキングへ

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先の定期健康診断でたたき出したデータの数値は、メタボの懸念を払拭するには充分なものだった。この1年、医師の指摘を返上すべく、あちらこちらをハイキングやトレッキングで歩き回った成果だろうと思う。今となっては、生活の一部となったことでもあり、「継続は力なり」と肝に銘じたい。

今回は、横川駅からアプト式の旧線、碓氷第三橋梁(めがね橋)までを往復するコース。横川の紅葉と土木遺構に触れることを目的に遠出することにした。この場合遠出とは、歩く時間より、往復に要する時間が長いこと。

一応、確認しておかなければいけない歴史がある。
碓氷峠を越える碓氷線は、軽井沢・横川間に26のトンネルと18の橋梁を建設し、1893(M26)4.1に開通した。翌年には日清戦争が始まる。これに間に合わせるように、集中的な工期で最短ルートを完成させ、太平洋岸から日本海岸に至る貨物輸送ルートとして、信越からの産品輸送の動脈ともなった。1912(M45)には、日本初の電化営業運転を実現し、採用された第三軌条の方式は、東京地下鉄道(後の東京メトロ)が浅草・新橋間の建設に際して(T14.9.27起工)、見学に訪れている。1963(S38)9.30には、非アプト式の粘着運転によって実現した新ルートの新線が複線営業を開始。アプト式運転の70年に渡る使命を終える。1997(H9)9.30には、平行区間の長野新幹線開通に伴って、104年に渡る軽井沢・横川間の営業を終えることになる。(第三橋梁の端で、由来の解説をされていたボランティアの方のお話からも参照)

今回、紅葉はいまひとつで、距離的にも、ややコンパクトだったが、歴史を紐解けば、そこに実現された交通手段に懸けた多くの方の熱意と、繁栄の歴史に思いを馳せることにもなる。

2011_1112__39横川駅のすぐ隣にある碓氷峠鉄道文化むらから、「アプトの道」が始まる。今回の目的ではないが、車両が静態展示されているヤードの一番奥に、ウグイス色のラインが特徴的な、特急あさまの車体を見つけた。直江津行きの方向幕が見える。遠望するだけだが、内部が痛んでいるようだ。何とも痛々しい。

2011_1112__12_3遊歩道として整備されている「アプトの道」と平行して、レールが敷かれた線路と架線が延びている。トロッコ列車の運行があるようだが、旧丸山変電所脇を過ぎてから、「峠の湯」の手前で「アプトの道」が左に分かれて行くところに、その終点駅が設置されている。レールと架線を備えた線路は、そこからは1963(S38)9.30に営業開始された新線ルートとして延びているが、一見何事もなかったようにも見える風景は不思議な錯覚に囚われる。

2011_1112__34_2その後、アプトの道を辿って第三橋梁まで到達すれば、先ほど分かれた新線が走る橋梁が遠望できる。見た目は架線と共に現存しているのだが、JRから経営分離された際、経営を引き継げないまま、放置されているものだと聞いた。
第三橋梁で折り返し、再びアプトの道を下って行く。旧丸山変電所脇を過ぎたころで立ち止まり、ふと見回すと、前にも後ろにも下りのハイカーの姿が見えないことに気づいた。時折上りのハイカーとすれ違いながら、ひとり、横川駅に向かい、トロッコ列車の線路と平行して延びる「アプトの道」を下る。

2011_1112__38目の前に続く圧倒的な開放空間は、未だ、列車が往来すべき空間を歩いているかのような錯覚を覚える。HP上の報告を見るばかりだが、第三橋梁の先に現存し、人の手が入らなくなった旧熊ノ平駅周辺などは、こことは違う表情を見せているらしい。新線ルートと合流するポイントであることからも、公開を前提に、訪れるルートの確保が望まれる。

帰宅して今考えれば、そこにあったものと、失ったものが見えるような気がする。国鉄時代、その再建策として特定地方交通線の整理が行われたが、現在も、整備新幹線の着工と引き替えに失われて行くものがある。地方を支えた鉄路のネットワークがJRから経営分離され、その寸断された営業区間だけで収益性を問われる姿は、分割民営化の負の遺産といえる。
この狭い国土を考えれば、新幹線による高速輸送は、これまでの資産を活かした、コンパクトで効率的な地方の鉄道網とともにあるべきだろうと思う。

2011_1112__43帰りの電車を待つ間に昼食とする。横川だけに釜飯もよいのだが、地元の食堂を探捜する。横川駅前の松一食堂さんで(駅正面の通りを出て先を右折すぐ)、お勧めの味噌ラーメンが750円也。
多少入りにくい店構えだが、時間の止まったような店内で、ガラス越しに差し込む光だけで十分な暖かさを感じる。味噌ラーメンは、手作りの味とでも言おうか、素朴な味わいで美味しい。会計を済ませ、店を後にする際、ご主人から横川の昔の繁栄の一端を伺うことができた。国鉄の職員宿舎があり、多くの職員で賑わったらしい。現在の、息を潜めたような街角からは、想像ができない。

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2011年11月 3日 (木)

雑感*よみがえる時の手触り

作家である北杜夫氏の訃報が流れた。
個人的には、文学を語る素養は持ち合わせていないものと自覚しているが、同氏は一番近いところにあった作家であったと言える。
余談ながら、私の文体は、その影響の下にあるようでもある。

学生のころ「どくとるマンボウ青春記」を手に取ったことが、その始まりだった。最近、押し入れの奥に、何冊か取り置いてあるのを発見したばかりだった。「どくとるマンボウ」を冠した、航海記、昆虫記、小辞典、青春記、追想記がそれである。学生時代、同氏のやや不可思議な視線や感性に共感を覚えた。私の感性にも少なからず影響を与えたが、それは私個人の歴史となって刻まれた。
同シリーズは、紙の装丁の上に透明なビニールカバーが掛かる、ちょっと珍しい装丁で、うっすら茶色がかった背表紙は、そこに刻まれた時の流れを感じる。

その他、現在でも「楡家の人びと」「白きたおやかな峰」「或る青春の日記」の3冊が書棚に残る。「幽霊」も手に取った記憶があるが、整理したものか、何故か見つからない。

ご冥福をお祈りしたいと思う。
                                 

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2011年10月31日 (月)

越生*第13回武蔵おごせハイキング大会 2

2011_1030130021(一本杉峠)

2011_1030130007昨年の17km、エンジョイコースへのチャレンジに続き、本年は27kmのチャレンジコースを踏破しました。標準タイムは8時間20分のところ7時間08分でゴールし、自宅からの往復歩数は44,715歩、万歩計の概算で31.3kmの行程いうところ。踏破した平均時速は4kmに僅かに届かず、目標は同5kmなのですが、山道が全体の四分の三程度を占めるので、まあ、よしとしましょう。

2011_1030130005事前に、多くの方のブログでコースタイムを拝見し、参考にしましたので、私のポイント通過タイムも掲載しておきます。ご参考までに。
条件としては、数日前から雨はなかったと思いますので、山道のコンディションは良い方だったこと、高取コースでの下山の渋滞は始まっていなかったことが挙げられます。休憩は、菓子パンをかじるために5分程度を2回ほど。これは、後の反省材料です。
7:05 スタート ⇒ 7:55 CP2高取山 ⇒ 8:25 越生自然休養村センター ⇒ 9:03 龍隠寺前 ⇒ 9:30 CP3黒山・熊野神社前 ⇒ 9:45 黒山三滝・傘杉峠へ分岐 ⇒ 10:25 傘杉峠・頂上 ⇒ 10:52 顔振峠・茶屋前 ⇒ 11:10 CP4諏訪神社 ⇒ 11:31 一本杉峠 ⇒ 11:55 笹郷・鼻曲り山登山口 ⇒ 13:15 桂木観音 ⇒ 13:45 虚空蔵尊 ⇒ 14:13 ゴール

2011_1030130004_2余談ですが、山歩きは未だ駆け出しなのですが、新人の視線から、対応してみたことをいくつか並べて見ます。
足回りとしてのトレッキングシューズの選択は、悪路の影響を緩和する靴底の厚さが必要ですが、このコースでは、比較的柔軟性があって、足裏の動きにフィットすることも重要だと思います。昨年、古いキャラバンシューズを履いて参加し、引きずるように帰りましたが、その後、軽装のトレッキングシューズを見つけました。
そして、
昨年は下りで大変苦労したことから、トレッキング・ポールというか、ストックというか、その安物をamazonで入手しました。悪路を通過する際に体のバランスを保つこと、下りの段差におけるショックの緩和に大変重宝しています。軽快に下っていく若者をやり過ごし、私は膝やくるぶしを気遣いながらストックを突いて、慎重に下っていきます。長い下りのアプローチなど、足回りの調子をおかしくしてはその先が続きません。

また、私は片手1本のストックで何かと都合がよいのですが、両手で2本のストックを使っている方もあります。その歩行には本来、特別なテクニックがあるようですが、登りや下りの局面において、両ストックに身体を預け、体重を掛けている方を見かけると、後ろから見ていてもハラハラします。ストックの取り回しが、オーバーアクションの方とは距離を保つことも覚えました。

2011_1030130006昨年来、10~20kmのハイキングを出来るだけ経験し、体力は維持してきたつもりですが、30kmの踏破は未体験ゾーンで、実際に歩いてみて、気づいたこともあります。

これまで、20km程度のコースでは、負荷の度合いにもよりますが
、出来るだけ歩行のピッチは一定に、コンスタントに踏破することを心掛けていました。それは、いわゆる暖まった状態を継続的に維持することにもなりますが、越生自然休養村センターから龍隠寺少し手前のピークまで続く微妙な登り勾配の車道、龍隠寺の先から黒山・熊野神社までに至る林道歩行などには、単調であるが故に、気持ちが途切れない工夫が欲しい。そこで活躍するのは、ウオークマンで、リンゴのマークではなく。今回は、長距離踏破なので、アグレッシブな大黒摩季でピッチを上げて対応することに。
そのアプローチの延長線上で、いちばんの難関と評判の高い、傘杉峠に至る黒山三滝手前の分岐から傘杉峠・頂上へのアプローチは、以外に「さっくり」と踏破できました。黒山三滝に至るまでのコースと比べると、様々な顔を見せるアプローチで、楽しめる部分がありました。

2011_1030130008顔振峠から諏訪神社、一本杉峠の先までは、そんな調子で進みましたが、その先の笹郷という鼻曲り山登山口から、一転調子が変わり、厳しいアプローチとなりました。
リサーチで、難関であるとは分かっていましたが、これまでのような、コンスタントな登りのアプローチが出来ません。ほぼ直登のようなところが正直、きついのですが、気持ちが折れるというか、切れるというか。途中で立ち止まり、心臓の拍動が落ち着くと進むことの繰り返しとなりました。
その影響は、その後、長い下りのアプローチにも引きずりました。
それ以降は、前出ほどではないまでも、再び短い直登アプローチやら、細かなアップダウンをいくつか繰り返し、桂木観音手前で、17kmのエンジョイコースと合流します。

2011_1030130010思えば、携行した菓子パンをかじる以外には(せいぜい5分)、積極的な休憩を取らずにアプローチしたことに原因がありそうで、顔振峠の茶屋辺りか、一本杉峠、若しくは笹郷の登山口辺りで充分な休憩をとってから、その先のアプローチを進めればよかったような気がします。暖めた身体の循環もリセットされますが、体力の回復を図る必要があったということでしょう。私は、ですけれどもね。

2011_1030130027ゴールの後、遅めの昼食。
越生町役場脇を下ったところにある地元の岩井屋さんで「麦とろ御膳」。27km踏破のご褒美で、消費したカロリーは充足してしまった。

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2011年10月18日 (火)

平成23年秋 川越まつり 2

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今年も出没しました、といっても。
端的に言えば毎年ですが、まつりの夜、お囃子の音で満たされた街を歩かなければ、一年が回らない様な気がしてなりません。
もちろん、写真道楽もありますが。
2011_101620096_5ところで、先の記事では触れていませんが、今年も曳っかわせが行われているポイントで、ベビーバギーが雑踏に巻き込まれ、立ち往生し、
押していたご夫婦は見物どころではなくなっている、気の毒な場面に何件か遭遇しました。その意味では、その周囲の方も危険ではありますが、何より、ご本人達があまり楽しくない記憶として残るのではないかと危惧します。もちろん、最終的には個人責任のところだとは思いますが。
2011_101620080_8曳っかわせのポイントに巻き込まれてしまうと、雑踏の中では大人でも身動きが取れなくなり、ヒヤリとする場面が多々あります。その中で、自己主張しようとすると相当のエネルギーが必要になります。また、曳っかわせの終了後、山車の移動が始まった際にも、周囲の見物客が一斉に動き出し、少なからず押し合いになる場面があります。曳っかわせで盛り上がる山車の近くで、その空気を味わいたい気持ちが、雑踏に巻き込まれてしまうのですが、それも川越まつりの醍醐味であることも事実です。

2011_101620052ベビーバギーでのご来場の方は、夜店をひやかして歩き回ることには、さほど問題ないように思えますが、曳っかわせが発生しているポイント、多くの場合交差点では、山車の運行に気を配りながら、その中心から、多少距離を置くことが、余裕を持って見物するためのポイントかもしれません。

2011_1016200592011_101620070_2おぶい紐で幼児を抱えている方も、見受けられましたが、そういう意味では有利でしょう。

ことしは、警察による人の流れの規制が目立ちましたが、功を奏しているかどうか分かりません。とにかく、押し合うような雑踏が発生することを前提に、まつり見物の作戦を立てることをお勧めしたいところです。2011_101620043

2011_1016200532011_101620048矛盾しているようでもありますが、それも川越まつりの醍醐味であると思いますので。


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2011年10月14日 (金)

平成23年秋 川越まつり

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今年も川越まつりが週末に迫っております。
詳細につきましては、「川越まつり公式サイト」が用意されていますので、是非、お出掛け前にご参照下さい。

お時間のある方は、昼の川越まつりの顔がありますが、個人的には、夜のそぞろ歩きがお薦めです。夜の空気に触れながら、灯りの入った山車を見て歩くのも一興です。

そして、夜の躍動感を演出するのが「曳っかわせ」ですが、やはり、午後7時頃からでしょうか、少し遅くなりますが、そのステージになる辻々では、行き交う山車と観客が身動きが取れなくなるほどの混雑と熱気が支配します。正直、時折、身の危険を感じることもありますが(笑)、これも川越まつりの醍醐味です。山車が運行されるメインの通りの拡幅計画もあり、完成後は雰囲気が変わるかもしれませんので、気になる方はお早めに。

15日(土)の天気予報は雨模様のようで、いささか心配です。

**以下、概要を「川越まつり公式サイト」より引用します。**
平成23年の川越まつりは、 以下の2日間の開催予定です。
10月15日(土) 16日(日)

■川越まつりの見どころ
宵山の山車揃い
会場内に山車が飾り置きされ、じっくりと山車と囃子をご覧いただけます。 各山車の場所は参加町の会所、宵山の山車展示位置情報でご確認ください。
⇒参加町の会所、宵山の山車展示位置情報
15日(土) 18:00~19:00頃
曳っかわせ
交差点で山車と山車が出会うと、 山車の正面を向けあって囃子と舞いを披露し合います。 川越まつりの一番の見どころです。
場所:札の辻、仲町、連雀町、本川越駅等の交差点
15日(土)  19:00~21:00頃
16日(日) 18:30~21:00頃

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2011年10月 9日 (日)

栃木市*駅からハイキングへ その2

2011_1008_0003_6昨日、栃木駅からJRの「駅からハイキング」に参加。
山道のトレッキングでは、歩行速度のアベレージに力点を置きますが、今回は、歴史的建造物が語る、過去の息遣いに耳を傾けるつもりで出掛けました。設定コース上では、街角で、歴史の息遣いを感ずる瞬間がありました。

2011_1008_0007_3街の風景は、川越のそれと共通項を感じるところがあります。気になったのは、街中で忽然と現れる洋館のこと。基本的にはコロニアルを意識し、ハーフティンバーの2011_1008_0009_2エッセンスを加えているところもある。それは、フォルム全体の軽快感を演出している。
大正の頃の作風だろうか。
擬洋風建築と言えなくもないものもある。未だ眼にしていない作品を含め、残っているだけで目立つのだから、消2011_1008_0010_3え去った作品も多々あったのでしょう。大正期に、生活環境も変わり、新しい様式を積極的に受け入れた当時の高揚感が伺われます。
以下、ルートに沿って。

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2011年10月 8日 (土)

栃木市*駅からハイキングへ

塩野七生氏の「ローマ人の物語の」第一巻、「ローマは一日にして成らず」をポケットに、今日は栃木市に向かう。

JRの、「駅からハイキング」の企画を利用して12kmばかり歩いて来る予定。だんだん、遠出になって来ているのも事実だが、9月初めから集中取り組みを継続中。
今回は、川越と似た蔵の街であるとの基礎知識があるのみだが、その街並みを堪能できそうでもあり、やや、高揚感あり。

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2011年9月25日 (日)

ローマは一日にして成らず

思うところあって、塩野七生氏の「ローマ人の物語」を捜しに古本屋に出没する。通巻を読み通すのは誠に恐れ多いことなのだが、とりあえず今回は文庫版の「第二巻」まで、「ローマは一日にして成らず」の上・下巻を手に入れていた。

その第一巻をポケットに、本日は群馬に向かう。JRの、「駅からハイキング」の企画を利用して10kmばかり歩いて来る予定、一昨日の15kmに引き続き、墓参りを挟んで彼岸の二連投である。

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2011年9月 2日 (金)

越生*第13回武蔵おごせハイキング大会

来月、10月30日に開催の実施要領が発表されている。
もちろん、昨年に引き続き挑戦することは心に決めている。

思えば昨年、おっかなびっくり17kmコースに挑戦し、初挑戦ながら、どうにか駆け抜けた。それ以来、そこそこ場数も踏んだので、今年は27kmコースを目指すのが当然だろうと思う。

27kmコースの踏破を宣言するのは憚るが、一応そのつもりと言ってもよい。6月以降まとめて歩いていないのも事実なのだが、この2箇月は機会を見つけ、身体を作って、10月30日にはとりあえず駆け抜ける勢いで参加しようと思う。

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2011年7月14日 (木)

東北*遠野の夏

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東北の夏は暑い。
子供の頃、旧盆に父の帰省で宮古を訪れると、そう思っていた。
東京から遙か北に向かうのに、尋常でない暑さが不思議だった。

遠野行きの話しの前に、少しだけ寄り道を。

その頃は確か、東北本線の特急で、盛岡までは6時間位かかったような気がする。東北への旅は、上野駅を発つときの高揚感からスタートした。これは私の手を引いた父親も同じことだったろう。
ホームに入線している特急の座席に腰を落ち着ければ、小さなコップがセットになったウイスキーの携帯用小瓶を取り出し、目の前に鎮座させるのが、いつもの儀式だった。私は、当時定番だった冷凍みかん、ただただ甘いコーヒー飲料やソフトドリンクがお供で、缶の底に飲み口を開けるパーツが付いていた缶もあった時代だった。その後、押し込み式のプルトップとの過渡期を経験することになる。もちろん駅弁のための時間も充分にあったが、当たり前の幕の内弁当で結構、満足だった。経木の折箱に掛紙を掛け、縦横に紐が掛けてある、御飯は型押ししてあり、黒ごまが散らしてある、あれである。その外見も中身も、夏の旅のエッセンスとしては定番だった。

年によっては帰りの指定席が確保できず、周囲の客と同じように、通路に新聞紙を敷いて車体の揺れに身を任す旅も経験した。多少の不満はあっても、さほど辛くはなかった。そんな風景も珍しくはない時代だった。ただ一度、古い客車で編成された宮古発、臨時の夜行急行で帰ったとき (後日、調べてみると、B寝台も連結した4両編成の「みやこ」だったと思われる、釜石経由花巻に向かい「十和田」と連結。)、それは、さすがに子供には厳しい旅となった。深夜の車窓には、横切る光の軌跡以外、何も見えない。日中とは時の流れの早さが違うことを実感した。ボックスシートでうつらうつらしながら、ひと晩、修行のような旅をすることになった。首都圏に近づき、すっかり明るくなった頃、朝食ということだろう、父から駅弁を渡されたが、折箱の蓋を開ける気力が残っていたかどうか、覚えていない。大変な旅だったが、今思えば、その道中、父なりに気を遣っていたのだろうと思う。

そんな記憶も含め、別稿で触れてみたい。もとより、旧盆のころに指定席を確保することは、オペレーションとしては緊張感漂う総力戦だった。

今時の旅は、東北新幹線での短い旅程と、接続する在来線、若しくは地元公共交通機関の組合せを計算するだけの旅で、やや、物足りないと言えば、へそ曲がりだろうか。今は、構内のコンビニでサンドイッチとドリンク、日経を買って、新幹線に乗るのがスタイルとなった。現在の旅では、それで丁度よいのである。

ともかく長い旅だったが、東北本線の特急停車駅にもそれぞれの地元の表情があった。水沢駅だったろうか、ホームにたくさんの風鈴が風にたなびいている風景が、夏の風物詩として印象に残る。翌年もまた同じ風鈴が迎えてくれた。

その駅の風景をひとつひとつ後にしていくことが、郷里に向かって旅を続けるストーリーになった。それは現在の新幹線の旅とは比べようもない。東北本線の盛岡駅に到着した後、地下の連絡通路をくぐって山田線の発着ホームに向かえば、太平洋岸の宮古を目指す旅が始まる予感がした。それは、旅の終わりを実感させるものであり、ゴールに向けて辿る駅名のひとつひとつが記憶に刷り込まれた。

それは、夏の帰省がひと仕事であった時代のことだが、夕刻近く、父の郷里である宮古に到着するころには、子供心にも旅を終えた達成感らしきものがあった。

そして、今年7月、法事で遠野を訪れることになった。
2005_060400014釜石線に乗り換えの新花巻駅を目前にして、水沢江刺駅に停車中、7月10日9時57分発生したマグニチュード7.1の余震に遭遇することになった。走行中であれば、違う緊張感が支配しただろう。車体の大きな揺れとほぼ同時に送電がカットされ、今何が起きているかは認識された。一瞬の緊張感と共に、いくつかの想定と、これからの段取りの計算が頭を過ぎる。3月の東日本大震災以来、復興に向けた歩みという意味で、時の経過を感じていたのも事実なのだが、被災地の方々、東北の方々にとって、震災という意味では未だ終わっていない日常である、そう感じる瞬間だった。

幸い20分程の遅延で運行は再開され、新花巻駅で釜石線に乗り換えることができた。太平洋沿岸である釜石には津波の避難勧告が発令され、釜石駅までは運行できないということだったが、私はその途中である遠野を目指して車中の人となる。盛岡駅から宮古に向かう山田線に比べれば、渓谷沿いという風景は少なく、市街地や見通しのよい平野の風景が多いかもしれない。車窓に広がる緑豊かな水田の景色は、東北の夏の風景でもあるが、この季節の遠野行きを思わせる。

遠野駅に着いたのは昼過ぎで、通りの人影もがまばらだったが、それは、街が息を忍ばせているようにも見えた。

遠野は水が豊かである。
今回は散策する時間がなかったが、市内を流れる川やこの時期の用水路の水の豊かさは印象的だった。駅前に広がる街の区画は遠野南部氏の頃の街づくりを偲ばせる。
今回は、これまで幾度か通った道を、レンタサイクルで駆け抜ける。いくつかの辻を曲がって、法事が行われるお寺に駆けつけた。空には東北の夏の空。法事を行った本堂には涼やかな風が吹き抜けていた。

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2011年6月26日 (日)

河津*水のイメージ

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梅雨が明ける見込みは当面無いようですが、ただ、梅雨の中休みか、今年の夏を占うような酷暑が続きました。
何となく、脳裏に浮かぶのは水のイメージ。
デスクのフォトフレームにある、数年前の旅の記憶。

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2011年6月 5日 (日)

小川町*官ノ倉山から

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2011年度はじめての、東武健康ハイキング。
15km程の行程となったが、山道はその内四分の一位だろうか。後半、下りの足許の悪さを除いては軽い山越えだが、頂上間近に僅かに厳しいアプローチがある。いつもながら、急傾斜のルートを張り付くように登っていく姿を見ると、いったい何がそうさせるのかと思わないでもない。私もその列に並ぶひとりなのだが。
山越えを終えると、東秩父村和紙の里へ向かう。和紙漉の実演を見ることが出来た。映像では見る機会があるが、目前で見る機会を得て、誠に興味深い。職人さんの視線が作業のタイミングをコントロールしている様子がよく分かる。東秩父農産物販売所で婦人部の方々が提供する「おやき」を土産とする。手作り感がよく、家人には好評でまずまず。
全行程の四分の三近くが舗道の行程となったが、山道中心の行程との違いを実感する。山道中心で踏破するコースの方が、アップダウンはあっても、負担感が少ない。疲労感とは微妙に異なるところ。

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2011年5月26日 (木)

雑感*何となくエコなこと

我が家においても、地デジ対策を終えた。
本年7月24日の最終ゴールを目前に、これまで当家が必要とするスペック、コストパフォーマンス等を天秤に掛けて周りを見回してきたが、ようやく、最終プランを実行に移した。結果として、オーバースペックな環境は遠慮することにした。

それでも、お付き合いとは言え、正直、いい迷惑で、発生するコストはもとより、時間も神経も浪費したように思う。未だ事情が動いているのも事実で、東京スカイツリーからの本放送は、平成25年を待つことになる。世の中、合点のいかないことが多いことを実感する。

当家が辿り着いた何となくエコな結論は、先行して導入済みの20インチの液晶テレビの他、既存の28インチテレビには地デジチューナーを付け、しばらくの延命を図ること。

結果、液晶とブラウン管で地デジ放送を見比べることになった。
28インチテレビには、地デジチューナーをD端子でD3接続をする。
Dとは言うが、信号はアナログで、デジタルでコントロールされている訳ではないらしい。2001年製造のブラウン管テレビだが、購入当時、何となく拘ったD端子を活用することになった。

地デジチューナーの導入を終え、改めて思うけれど、ブラウン管のD3接続の方が圧倒的に見やすい、疲れが少ない。アナログ出力だからと言うべきか、好みでもいいのだが、液晶で見る地デジ放送のエッジが立ったソリッドな質感とは異なる。やさしくクリアな画面は拾いものであった。せっかくエコな結末でもあるし、長生きしてくれることを祈りたい。

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2011年5月 5日 (木)

雑感*陰影のある日常*東日本大震災5

震災の余波は、莫大な電力を消費する日常に、確実に変革を強いている。そして、今、エネルギー政策の根幹をなしていた原子力発電の位置付けを、問い直されている。産業政策から、その電源需要を説き起こし、その役割を語ることは、これまで十二分に行われてきたであろうし、そのひとつの帰結が現状なのだろう。

しかしながら、今ひとつ気づいたこともある。これまで、莫大な電力を消費して、至るところで必要以上の「照度」が確保され、いささか露出オーバーの白飛び気味の光景に疑問を抱くことはなかった。今、周囲を見回すと「節電」は、至るところに「陰影のある日常」を生んだ。ただの薄暗がりは「後退」「停滞」をイメージさせるが、いささか不器用に照度を落としてある場面においても、物の「質感」や「色」がよりリアルに感ずることがあるのは不思議なことでもある。これまでに莫大な電力を費やして与えられた環境のすべてが、発展の果実として、実生活において必要不可欠のものになっているとも思えない。しかしながら、電力の消費という尺度で測られる経済活動が、我が国の経済発展の基礎であるならば、将来の国の姿を展望し、これらを支えるエネルギー政策において、何処に軸足を置くべきかの選択は確実に迫られている。

原子力は「神の火」なのかもしれない、人の歴史は、神の領域に手を伸ばすことによって進歩を手にしてきたのかも知れない。しかしながら、テクノロジーがすでに存在していても、システムとしてそれを運用するためのスキーム、、行政のプロセスに、合目的的な結論を得るためには障害となる欠陥を内包することが必然であるならば、「神の火」は、未だ制御するに至っていないことを、改めて実感した。

いずれ、人は「神の火」を手にするかもしれない。それは、人が進歩を求める歴史の必然だろう。しかし、それには、「種火」を失わないための、謙虚な取り組みの積み重ねが必要なのではないか。我が国では、民間会社から国、内閣総理大臣までの重層的な関与は、それぞれの職務の分掌化が、結果として「安全」を担保し得なかった。「想定し得ない」ということは人間の未熟さであって、神への言い訳にすぎないのかもしれない。また、安全を担保するためには国際機関による技術水準の研究、維持の他、建設における監理、また、その商用運転においても、国際的な監視の下に行われることが考えられるが、コマーシャルベースで行われる以上、その障壁が高いことは明らかでもある。

電力需要を基にした経済発展を維持するために、今、「選択」をなすべき局面なのだろう。原子力発電に言われるところの「3つのE」は、既に国民に対する説得力を失いつつある。「再生可能エネルギー」の莫大なポテンシャルに着目し、そこに大きく「軸足」を移すことは、残された道、というよりも切り開くべき道なのではないか。これまでの、取り組みの歴史がある。犠牲にすべきもの、後退するものも含めて、そこに航海図を描くのが、政治の責任ではないか。

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