2012年1月 9日 (月)

新年を迎えて

年を越してから知ったことがある。

AMラジオから流れた保育園児達の歌声。
その歌声に耳を傾けた。
岩手県二戸市にある、ある保育園の園児達である。
声を限りに歌っている曲は「空より高く」、あきらめないでと謳う。
卒園式に使われる一般的な曲であるらしい。

3月19日に卒園式を控えていたが、11日に被災した後、先生方と園児達が、今、何が出来るかというところからスタートし、その歌声の音源をIBC岩手放送に送ったものらしい。

そして、ラジオから流れた歌声は、震災直後の被災地に届いた。被災された方々の耳にとまった園児達の歌声は、その心を確実に揺さぶった。生きる息吹を吹き込んだのではないか。
その力強さは、数ヶ月を経て、私も経験することとなった。

2011年を終え、2012年を迎えるにあたっての言葉をまとめる努力をしてみたが、難しい。3.11以後の心が震えるような経験は、整理がついたとは言い難い。復興の槌音が響くのは、これからであり、未だ始まっていないとも言える。

時の経過は冷徹だが、無念のうちに被災地を離れた方々が、新たな故郷に帰還する日が来るまで、2011.3.11にあったことは忘れない、今は、そう思うことにした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年12月11日 (日)

高尾山*本年〆の山歩きへ

2011_12100005_2

高尾山といえば、小学校の遠足以来だが、本年の秋、小学校以来何年目かと思いながら訪れた。そして、今回、本年最後の山歩きとして2度目の高尾山登山を目指した。
定期健康診断で受けた「メタボ」の指摘を返上するため、あちらこちらで歩き回ったが、その流れを来年に繋げたい。

むろん、ケーブルカーではなく、登山道経由で登り下りするのだが、その辺を歩いても10kmには届かない。ロケーションもよく、幼児から、お年を召した方まで、ありとあらゆる年齢層の方が頂上を目指す。トレッキングとしては、距離的に物足りないものがあるが、気軽な調整には好適なコースと見た。その分タイムを気にしながら一気に登り切ることがトライアルとなる。陣馬高原への縦走を企てれば、タフなコースに変貌しそうだが、それは来年の課題にとっておこう。

.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月20日 (日)

雑感*当世流行事情

今は見慣れた風景だが、雑踏の中、携帯やスマホを凝視しながら街角を歩いていく姿が目立つようになった。さすがに、ラッシュ時のターミナル駅で、その様子で階段を上がってきた女性の姿には驚かされたが。

手にした携帯端末に落とす視線が、押し並べて、あたかも端末を拝みながら歩いているように見えるのも不思議な光景だが、すれ違う人波の中でも、するりと避けて歩いて行くのは曲芸のようでもある。人混みの中、避ける気配が感じられないか、避け方が未だぎこちなく、どこか緊張感を漂わせる姿には、こちらが緊張感を覚える瞬間もある。街角のこうした無言の気配りは、当世必須の感性なのだろうと思う。

その風景は、人が往来する街角の息遣いから、どこか意図して途絶させた、その閉じた世界観を主張しているかのごとく見える。
それは、歩きながらゲームをしているわけでもあるまいが、ヴァーチャル環境を手に、リアル環境の街角を、ひとり彷徨しているようにも映る。その一見シームレスな環境の下に、何かが麻痺しているようにも見える。

携帯端末で、常にネットワークに片足を浸している日常は、私には必要以上の拘束と映る。ネットに繋がることは、環境に応じて選択的に指向することが、私には、住み心地がよさそうである。

また、そこには、人混みの中で、街角との関わりを途絶させたことによって生ずる物理的なリスクがある。見方によっては、携帯やスマホを凝視しながら歩き回ることは、そのリスクを、周囲に転嫁していることでもある。

さらに、同じように携帯やスマホを凝視しながら、「自転車」で走行するような行為においては、そこには何ら必然性がない上に、そのリスクが容易に顕在化することは論を待たない。警察による摘発がニュースにもなっているが、それは、眼や耳の不自由な方、足腰の不自由な方、高齢の方などのいわば「交通弱者」に対して、そのリスクがより顕在化しやすい。

そこに思いを致すべきではなかろうか。

そこで、求められることは何か。
それは、僅かばかりの想像力ではないだろうか。

日常生活の中で、交通弱者が、他者の招いたリスクにひるむ瞬間があれば、それは当たり前のことだろうか、何がそうさせるのか。社会生活において協調し、妥当な結果を得るためには、気を配るべきは、誰の責任だろうか。自分の家族が、そのリスクに街中を歩くことをひるんだとき、交通環境の危険性を指摘しても、本人の責任だとは思えないだろう。そこに不条理を感じないだろうか。

自転車の話しは過去にも触れたことがあるので、付言したい。
「無灯火運転」、これは薄暮時から夜間に掛けてランプを点灯させることは、自分の視野を確保するためであるとの誤解があること、自分で回避行動が取れればさえよいとの誤解に繋がる。
実際は、事故を回避するために、対向する歩行者や車に対して、自らの存在を視認させ、注意喚起をするためにランプを点灯する必要性があることの理解が不足している。
「逆送運転」、右折等のために一時反対車線に移るのではなく、右側走行を前提として走行することは、根拠が乏しい自己主張にすぎない。これに類する事象もあるようだが、結局の処、いずれも、想像し得ない挙動から発生するリスクを、他者に転嫁しているだけと映る。それは、法令遵守の以前の問題であると言える。

そんなに難しい話しではない。いろいろな局面において、周囲に許容される限度を試すような自己主張よりも、幼児から高齢の方、障害を持つ方とともに暮らす社会において、その行為は誰のために気を配り、責任を持つべきことなのかということを前提として考えれば、やさしい社会になる、それだけの話しではないだろうか。

.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月14日 (月)

横川*駅からハイキングへ

2011_1112__24_4

先の定期健康診断でたたき出したデータの数値は、メタボの懸念を払拭するには充分なものだった。この1年、医師の指摘を返上すべく、あちらこちらをハイキングやトレッキングで歩き回った成果だろうと思う。今となっては、生活の一部となったことでもあり、「継続は力なり」と肝に銘じたい。

今回は、横川駅からアプト式の旧線、碓氷第三橋梁(めがね橋)までを往復するコース。横川の紅葉と土木遺構に触れることを目的に遠出することにした。この場合遠出とは、歩く時間より、往復に要する時間が長いこと。

一応、確認しておかなければいけない歴史がある。
碓氷峠を越える碓氷線は、軽井沢・横川間に26のトンネルと18の橋梁を建設し、1893(M26)4.1に開通した。翌年には日清戦争が始まる。これに間に合わせるように、集中的な工期で最短ルートを完成させ、太平洋岸から日本海岸に至る貨物輸送ルートとして、信越からの産品輸送の動脈ともなった。1912(M45)には、日本初の電化営業運転を実現し、採用された第三軌条の方式は、東京地下鉄道(後の東京メトロ)が浅草・新橋間の建設に際して(T14.9.27起工)、見学に訪れている。1963(S38)9.30には、非アプト式の粘着運転によって実現した新ルートの新線が複線営業を開始。アプト式運転の70年に渡る使命を終える。1997(H9)9.30には、平行区間の長野新幹線開通に伴って、104年に渡る軽井沢・横川間の営業を終えることになる。(第三橋梁の端で、由来の解説をされていたボランティアの方のお話からも参照)

今回、紅葉はいまひとつで、距離的にも、ややコンパクトだったが、歴史を紐解けば、そこに実現された交通手段に懸けた多くの方の熱意と、繁栄の歴史に思いを馳せることにもなる。

2011_1112__39横川駅のすぐ隣にある碓氷峠鉄道文化むらから、「アプトの道」が始まる。今回の目的ではないが、車両が静態展示されているヤードの一番奥に、ウグイス色のラインが特徴的な、特急あさまの車体を見つけた。直江津行きの方向幕が見える。遠望するだけだが、内部が痛んでいるようだ。何とも痛々しい。

2011_1112__12_3遊歩道として整備されている「アプトの道」と平行して、レールが敷かれた線路と架線が延びている。トロッコ列車の運行があるようだが、旧丸山変電所脇を過ぎてから、「峠の湯」の手前で「アプトの道」が左に分かれて行くところに、その終点駅が設置されている。レールと架線を備えた線路は、そこからは1963(S38)9.30に営業開始された新線ルートとして延びているが、一見何事もなかったようにも見える風景は不思議な錯覚に囚われる。

2011_1112__34_2その後、アプトの道を辿って第三橋梁まで到達すれば、先ほど分かれた新線が走る橋梁が遠望できる。見た目は架線と共に現存しているのだが、JRから経営分離された際、経営を引き継げないまま、放置されているものだと聞いた。
第三橋梁で折り返し、再びアプトの道を下って行く。旧丸山変電所脇を過ぎたころで立ち止まり、ふと見回すと、前にも後ろにも下りのハイカーの姿が見えないことに気づいた。時折上りのハイカーとすれ違いながら、ひとり、横川駅に向かい、トロッコ列車の線路と平行して延びる「アプトの道」を下る。

2011_1112__38目の前に続く圧倒的な開放空間は、未だ、列車が往来すべき空間を歩いているかのような錯覚を覚える。HP上の報告を見るばかりだが、第三橋梁の先に現存し、人の手が入らなくなった旧熊ノ平駅周辺などは、こことは違う表情を見せているらしい。新線ルートと合流するポイントであることからも、公開を前提に、訪れるルートの確保が望まれる。

帰宅して今考えれば、そこにあったものと、失ったものが見えるような気がする。国鉄時代、その再建策として特定地方交通線の整理が行われたが、現在も、整備新幹線の着工と引き替えに失われて行くものがある。地方を支えた鉄路のネットワークがJRから経営分離され、その寸断された営業区間だけで収益性を問われる姿は、分割民営化の負の遺産といえる。
この狭い国土を考えれば、新幹線による高速輸送は、これまでの資産を活かした、コンパクトで効率的な地方の鉄道網とともにあるべきだろうと思う。

2011_1112__43帰りの電車を待つ間に昼食とする。横川だけに釜飯もよいのだが、地元の食堂を探捜する。横川駅前の松一食堂さんで(駅正面の通りを出て先を右折すぐ)、お勧めの味噌ラーメンが750円也。
多少入りにくい店構えだが、時間の止まったような店内で、ガラス越しに差し込む光だけで十分な暖かさを感じる。味噌ラーメンは、手作りの味とでも言おうか、素朴な味わいで美味しい。会計を済ませ、店を後にする際、ご主人から横川の昔の繁栄の一端を伺うことができた。国鉄の職員宿舎があり、多くの職員で賑わったらしい。現在の、息を潜めたような街角からは、想像ができない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月 3日 (木)

雑感*よみがえる時の手触り

作家である北杜夫氏の訃報が流れた。
個人的には、文学を語る素養は持ち合わせていないものと自覚しているが、同氏は一番近いところにあった作家であったと言える。
余談ながら、私の文体は、その影響の下にあるようでもある。

学生のころ「どくとるマンボウ青春記」を手に取ったことが、その始まりだった。最近、押し入れの奥に、何冊か取り置いてあるのを発見したばかりだった。「どくとるマンボウ」を冠した、航海記、昆虫記、小辞典、青春記、追想記がそれである。学生時代、同氏のやや不可思議な視線や感性に共感を覚えた。私の感性にも少なからず影響を与えたが、それは私個人の歴史となって刻まれた。
同シリーズは、紙の装丁の上に透明なビニールカバーが掛かる、ちょっと珍しい装丁で、うっすら茶色がかった背表紙は、そこに刻まれた時の流れを感じる。

その他、現在でも「楡家の人びと」「白きたおやかな峰」「或る青春の日記」の3冊が書棚に残る。「幽霊」も手に取った記憶があるが、整理したものか、何故か見つからない。

ご冥福をお祈りしたいと思う。
                                 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月31日 (月)

越生*第13回武蔵おごせハイキング大会 2

2011_1030130021(一本杉峠)

2011_1030130007昨年の17km、エンジョイコースへのチャレンジに続き、本年は27kmのチャレンジコースを踏破しました。標準タイムは8時間20分のところ7時間08分でゴールし、自宅からの往復歩数は44,715歩、万歩計の概算で31.3kmの行程いうところ。踏破した平均時速は4kmに僅かに届かず、目標は同5kmなのですが、山道が全体の四分の三程度を占めるので、まあ、よしとしましょう。

2011_1030130005事前に、多くの方のブログでコースタイムを拝見し、参考にしましたので、私のポイント通過タイムも掲載しておきます。ご参考までに。
条件としては、数日前から雨はなかったと思いますので、山道のコンディションは良い方だったこと、高取コースでの下山の渋滞は始まっていなかったことが挙げられます。休憩は、菓子パンをかじるために5分程度を2回ほど。これは、後の反省材料です。
7:05 スタート ⇒ 7:55 CP2高取山 ⇒ 8:25 越生自然休養村センター ⇒ 9:03 龍隠寺前 ⇒ 9:30 CP3黒山・熊野神社前 ⇒ 9:45 黒山三滝・傘杉峠へ分岐 ⇒ 10:25 傘杉峠・頂上 ⇒ 10:52 顔振峠・茶屋前 ⇒ 11:10 CP4諏訪神社 ⇒ 11:31 一本杉峠 ⇒ 11:55 笹郷・鼻曲り山登山口 ⇒ 13:15 桂木観音 ⇒ 13:45 虚空蔵尊 ⇒ 14:13 ゴール

2011_1030130004_2余談ですが、山歩きは未だ駆け出しなのですが、新人の視線から、対応してみたことをいくつか並べて見ます。
足回りとしてのトレッキングシューズの選択は、悪路の影響を緩和する靴底の厚さが必要ですが、このコースでは、比較的柔軟性があって、足裏の動きにフィットすることも重要だと思います。昨年、古いキャラバンシューズを履いて参加し、引きずるように帰りましたが、その後、軽装のトレッキングシューズを見つけました。
そして、
昨年は下りで大変苦労したことから、トレッキング・ポールというか、ストックというか、その安物をamazonで入手しました。悪路を通過する際に体のバランスを保つこと、下りの段差におけるショックの緩和に大変重宝しています。軽快に下っていく若者をやり過ごし、私は膝やくるぶしを気遣いながらストックを突いて、慎重に下っていきます。長い下りのアプローチなど、足回りの調子をおかしくしてはその先が続きません。

また、私は片手1本のストックで何かと都合がよいのですが、両手で2本のストックを使っている方もあります。その歩行には本来、特別なテクニックがあるようですが、登りや下りの局面において、両ストックに身体を預け、体重を掛けている方を見かけると、後ろから見ていてもハラハラします。ストックの取り回しが、オーバーアクションの方とは距離を保つことも覚えました。

2011_1030130006昨年来、10~20kmのハイキングを出来るだけ経験し、体力は維持してきたつもりですが、30kmの踏破は未体験ゾーンで、実際に歩いてみて、気づいたこともあります。

これまで、20km程度のコースでは、負荷の度合いにもよりますが
、出来るだけ歩行のピッチは一定に、コンスタントに踏破することを心掛けていました。それは、いわゆる暖まった状態を継続的に維持することにもなりますが、越生自然休養村センターから龍隠寺少し手前のピークまで続く微妙な登り勾配の車道、龍隠寺の先から黒山・熊野神社までに至る林道歩行などには、単調であるが故に、気持ちが途切れない工夫が欲しい。そこで活躍するのは、ウオークマンで、リンゴのマークではなく。今回は、長距離踏破なので、アグレッシブな大黒摩季でピッチを上げて対応することに。
そのアプローチの延長線上で、いちばんの難関と評判の高い、傘杉峠に至る黒山三滝手前の分岐から傘杉峠・頂上へのアプローチは、以外に「さっくり」と踏破できました。黒山三滝に至るまでのコースと比べると、様々な顔を見せるアプローチで、楽しめる部分がありました。

2011_1030130008顔振峠から諏訪神社、一本杉峠の先までは、そんな調子で進みましたが、その先の笹郷という鼻曲り山登山口から、一転調子が変わり、厳しいアプローチとなりました。
リサーチで、難関であるとは分かっていましたが、これまでのような、コンスタントな登りのアプローチが出来ません。ほぼ直登のようなところが正直、きついのですが、気持ちが折れるというか、切れるというか。途中で立ち止まり、心臓の拍動が落ち着くと進むことの繰り返しとなりました。
その影響は、その後、長い下りのアプローチにも引きずりました。
それ以降は、前出ほどではないまでも、再び短い直登アプローチやら、細かなアップダウンをいくつか繰り返し、桂木観音手前で、17kmのエンジョイコースと合流します。

2011_1030130010思えば、携行した菓子パンをかじる以外には(せいぜい5分)、積極的な休憩を取らずにアプローチしたことに原因がありそうで、顔振峠の茶屋辺りか、一本杉峠、若しくは笹郷の登山口辺りで充分な休憩をとってから、その先のアプローチを進めればよかったような気がします。暖めた身体の循環もリセットされますが、体力の回復を図る必要があったということでしょう。私は、ですけれどもね。

2011_1030130027ゴールの後、遅めの昼食。
越生町役場脇を下ったところにある地元の岩井屋さんで「麦とろ御膳」。27km踏破のご褒美で、消費したカロリーは充足してしまった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月18日 (火)

平成23年秋 川越まつり 2

2011_10150033_2

今年も出没しました、といっても。
端的に言えば毎年ですが、まつりの夜、お囃子の音で満たされた街を歩かなければ、一年が回らない様な気がしてなりません。
もちろん、写真道楽もありますが。
2011_101620096_5ところで、先の記事では触れていませんが、今年も曳っかわせが行われているポイントで、ベビーバギーが雑踏に巻き込まれ、立ち往生し、
押していたご夫婦は見物どころではなくなっている、気の毒な場面に何件か遭遇しました。その意味では、その周囲の方も危険ではありますが、何より、ご本人達があまり楽しくない記憶として残るのではないかと危惧します。もちろん、最終的には個人責任のところだとは思いますが。
2011_101620080_8曳っかわせのポイントに巻き込まれてしまうと、雑踏の中では大人でも身動きが取れなくなり、ヒヤリとする場面が多々あります。その中で、自己主張しようとすると相当のエネルギーが必要になります。また、曳っかわせの終了後、山車の移動が始まった際にも、周囲の見物客が一斉に動き出し、少なからず押し合いになる場面があります。曳っかわせで盛り上がる山車の近くで、その空気を味わいたい気持ちが、雑踏に巻き込まれてしまうのですが、それも川越まつりの醍醐味であることも事実です。

2011_101620052ベビーバギーでのご来場の方は、夜店をひやかして歩き回ることには、さほど問題ないように思えますが、曳っかわせが発生しているポイント、多くの場合交差点では、山車の運行に気を配りながら、その中心から、多少距離を置くことが、余裕を持って見物するためのポイントかもしれません。

2011_1016200592011_101620070_2おぶい紐で幼児を抱えている方も、見受けられましたが、そういう意味では有利でしょう。

ことしは、警察による人の流れの規制が目立ちましたが、功を奏しているかどうか分かりません。とにかく、押し合うような雑踏が発生することを前提に、まつり見物の作戦を立てることをお勧めしたいところです。2011_101620043

2011_1016200532011_101620048矛盾しているようでもありますが、それも川越まつりの醍醐味であると思いますので。


2011_101620086_4

2011_101620086_3

2011_101620086_2

2011_101620086

2011_101620080_4

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月14日 (金)

平成23年秋 川越まつり

2010_10160056

今年も川越まつりが週末に迫っております。
詳細につきましては、「川越まつり公式サイト」が用意されていますので、是非、お出掛け前にご参照下さい。

お時間のある方は、昼の川越まつりの顔がありますが、個人的には、夜のそぞろ歩きがお薦めです。夜の空気に触れながら、灯りの入った山車を見て歩くのも一興です。

そして、夜の躍動感を演出するのが「曳っかわせ」ですが、やはり、午後7時頃からでしょうか、少し遅くなりますが、そのステージになる辻々では、行き交う山車と観客が身動きが取れなくなるほどの混雑と熱気が支配します。正直、時折、身の危険を感じることもありますが(笑)、これも川越まつりの醍醐味です。山車が運行されるメインの通りの拡幅計画もあり、完成後は雰囲気が変わるかもしれませんので、気になる方はお早めに。

15日(土)の天気予報は雨模様のようで、いささか心配です。

**以下、概要を「川越まつり公式サイト」より引用します。**
平成23年の川越まつりは、 以下の2日間の開催予定です。
10月15日(土) 16日(日)

■川越まつりの見どころ
宵山の山車揃い
会場内に山車が飾り置きされ、じっくりと山車と囃子をご覧いただけます。 各山車の場所は参加町の会所、宵山の山車展示位置情報でご確認ください。
⇒参加町の会所、宵山の山車展示位置情報
15日(土) 18:00~19:00頃
曳っかわせ
交差点で山車と山車が出会うと、 山車の正面を向けあって囃子と舞いを披露し合います。 川越まつりの一番の見どころです。
場所:札の辻、仲町、連雀町、本川越駅等の交差点
15日(土)  19:00~21:00頃
16日(日) 18:30~21:00頃

.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月 9日 (日)

栃木市*駅からハイキングへ その2

2011_1008_0003_6昨日、栃木駅からJRの「駅からハイキング」に参加。
山道のトレッキングでは、歩行速度のアベレージに力点を置きますが、今回は、歴史的建造物が語る、過去の息遣いに耳を傾けるつもりで出掛けました。設定コース上では、街角で、歴史の息遣いを感ずる瞬間がありました。

2011_1008_0007_3街の風景は、川越のそれと共通項を感じるところがあります。気になったのは、街中で忽然と現れる洋館のこと。基本的にはコロニアルを意識し、ハーフティンバーの2011_1008_0009_2エッセンスを加えているところもある。それは、フォルム全体の軽快感を演出している。
大正の頃の作風だろうか。
擬洋風建築と言えなくもないものもある。未だ眼にしていない作品を含め、残っているだけで目立つのだから、消2011_1008_0010_3え去った作品も多々あったのでしょう。大正期に、生活環境も変わり、新しい様式を積極的に受け入れた当時の高揚感が伺われます。
以下、ルートに沿って。

2011_1008_0010_2_4

2011_1008_0012_4

2011_1008_0014_5

2011_1008_0015_3

2011_1008_0018_2

2011_1008_0029_2

2011_1008_0019

2011_1008_0020_3

2011_1008_0023

2011_1008_0037_2

2011_1008_0025_3

2011_1008_0026_3

2011_1008_0034_3

2011_1008_0046_2

2011_1008_0047_2

2011_1008_0048_2

2011_1008_0053_2

2011_1008_0055_5

2011_1008_0054

2011_1008_0056_3

2011_1008_0058_3

2011_1008_0059_3

2011_1008_0060_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月 8日 (土)

栃木市*駅からハイキングへ

塩野七生氏の「ローマ人の物語の」第一巻、「ローマは一日にして成らず」をポケットに、今日は栃木市に向かう。

JRの、「駅からハイキング」の企画を利用して12kmばかり歩いて来る予定。だんだん、遠出になって来ているのも事実だが、9月初めから集中取り組みを継続中。
今回は、川越と似た蔵の街であるとの基礎知識があるのみだが、その街並みを堪能できそうでもあり、やや、高揚感あり。

.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年9月25日 (日)

ローマは一日にして成らず

思うところあって、塩野七生氏の「ローマ人の物語」を捜しに古本屋に出没する。通巻を読み通すのは誠に恐れ多いことなのだが、とりあえず今回は文庫版の「第二巻」まで、「ローマは一日にして成らず」の上・下巻を手に入れていた。

その第一巻をポケットに、本日は群馬に向かう。JRの、「駅からハイキング」の企画を利用して10kmばかり歩いて来る予定、一昨日の15kmに引き続き、墓参りを挟んで彼岸の二連投である。

.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年9月 2日 (金)

越生*第13回武蔵おごせハイキング大会

来月、10月30日に開催の実施要領が発表されている。
もちろん、昨年に引き続き挑戦することは心に決めている。

思えば昨年、おっかなびっくり17kmコースに挑戦し、初挑戦ながら、どうにか駆け抜けた。それ以来、そこそこ場数も踏んだので、今年は27kmコースを目指すのが当然だろうと思う。

27kmコースの踏破を宣言するのは憚るが、一応そのつもりと言ってもよい。6月以降まとめて歩いていないのも事実なのだが、この2箇月は機会を見つけ、身体を作って、10月30日にはとりあえず駆け抜ける勢いで参加しようと思う。

.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月14日 (木)

東北*遠野の夏

2011_07100038ee
東北の夏は暑い。
子供の頃、旧盆に父の帰省で宮古を訪れると、そう思っていた。
東京から遙か北に向かうのに、尋常でない暑さが不思議だった。

遠野行きの話しの前に、少しだけ寄り道を。

その頃は確か、東北本線の特急で、盛岡までは6時間位かかったような気がする。東北への旅は、上野駅を発つときの高揚感からスタートした。これは私の手を引いた父親も同じことだったろう。
ホームに入線している特急の座席に腰を落ち着ければ、小さなコップがセットになったウイスキーの携帯用小瓶を取り出し、目の前に鎮座させるのが、いつもの儀式だった。私は、当時定番だった冷凍みかん、ただただ甘いコーヒー飲料やソフトドリンクがお供で、缶の底に飲み口を開けるパーツが付いていた缶もあった時代だった。その後、押し込み式のプルトップとの過渡期を経験することになる。もちろん駅弁のための時間も充分にあったが、当たり前の幕の内弁当で結構、満足だった。経木の折箱に掛紙を掛け、縦横に紐が掛けてある、御飯は型押ししてあり、黒ごまが散らしてある、あれである。その外見も中身も、夏の旅のエッセンスとしては定番だった。

年によっては帰りの指定席が確保できず、周囲の客と同じように、通路に新聞紙を敷いて車体の揺れに身を任す旅も経験した。多少の不満はあっても、さほど辛くはなかった。そんな風景も珍しくはない時代だった。ただ一度、古い客車で編成された宮古発、臨時の夜行急行で帰ったとき (後日、調べてみると、B寝台も連結した4両編成の「みやこ」だったと思われる、釜石経由花巻に向かい「十和田」と連結。)、それは、さすがに子供には厳しい旅となった。深夜の車窓には、横切る光の軌跡以外、何も見えない。日中とは時の流れの早さが違うことを実感した。ボックスシートでうつらうつらしながら、ひと晩、修行のような旅をすることになった。首都圏に近づき、すっかり明るくなった頃、朝食ということだろう、父から駅弁を渡されたが、折箱の蓋を開ける気力が残っていたかどうか、覚えていない。大変な旅だったが、今思えば、その道中、父なりに気を遣っていたのだろうと思う。

そんな記憶も含め、別稿で触れてみたい。もとより、旧盆のころに指定席を確保することは、オペレーションとしては緊張感漂う総力戦だった。

今時の旅は、東北新幹線での短い旅程と、接続する在来線、若しくは地元公共交通機関の組合せを計算するだけの旅で、やや、物足りないと言えば、へそ曲がりだろうか。今は、構内のコンビニでサンドイッチとドリンク、日経を買って、新幹線に乗るのがスタイルとなった。現在の旅では、それで丁度よいのである。

ともかく長い旅だったが、東北本線の特急停車駅にもそれぞれの地元の表情があった。水沢駅だったろうか、ホームにたくさんの風鈴が風にたなびいている風景が、夏の風物詩として印象に残る。翌年もまた同じ風鈴が迎えてくれた。

その駅の風景をひとつひとつ後にしていくことが、郷里に向かって旅を続けるストーリーになった。それは現在の新幹線の旅とは比べようもない。東北本線の盛岡駅に到着した後、地下の連絡通路をくぐって山田線の発着ホームに向かえば、太平洋岸の宮古を目指す旅が始まる予感がした。それは、旅の終わりを実感させるものであり、ゴールに向けて辿る駅名のひとつひとつが記憶に刷り込まれた。

それは、夏の帰省がひと仕事であった時代のことだが、夕刻近く、父の郷里である宮古に到着するころには、子供心にも旅を終えた達成感らしきものがあった。

そして、今年7月、法事で遠野を訪れることになった。
2005_060400014釜石線に乗り換えの新花巻駅を目前にして、水沢江刺駅に停車中、7月10日9時57分発生したマグニチュード7.1の余震に遭遇することになった。走行中であれば、違う緊張感が支配しただろう。車体の大きな揺れとほぼ同時に送電がカットされ、今何が起きているかは認識された。一瞬の緊張感と共に、いくつかの想定と、これからの段取りの計算が頭を過ぎる。3月の東日本大震災以来、復興に向けた歩みという意味で、時の経過を感じていたのも事実なのだが、被災地の方々、東北の方々にとって、震災という意味では未だ終わっていない日常である、そう感じる瞬間だった。

幸い20分程の遅延で運行は再開され、新花巻駅で釜石線に乗り換えることができた。太平洋沿岸である釜石には津波の避難勧告が発令され、釜石駅までは運行できないということだったが、私はその途中である遠野を目指して車中の人となる。盛岡駅から宮古に向かう山田線に比べれば、渓谷沿いという風景は少なく、市街地や見通しのよい平野の風景が多いかもしれない。車窓に広がる緑豊かな水田の景色は、東北の夏の風景でもあるが、この季節の遠野行きを思わせる。

遠野駅に着いたのは昼過ぎで、通りの人影もがまばらだったが、それは、街が息を忍ばせているようにも見えた。

遠野は水が豊かである。
今回は散策する時間がなかったが、市内を流れる川やこの時期の用水路の水の豊かさは印象的だった。駅前に広がる街の区画は遠野南部氏の頃の街づくりを偲ばせる。
今回は、これまで幾度か通った道を、レンタサイクルで駆け抜ける。いくつかの辻を曲がって、法事が行われるお寺に駆けつけた。空には東北の夏の空。法事を行った本堂には涼やかな風が吹き抜けていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月26日 (日)

河津*水のイメージ

20080831kawazu_021ee

梅雨が明ける見込みは当面無いようですが、ただ、梅雨の中休みか、今年の夏を占うような酷暑が続きました。
何となく、脳裏に浮かぶのは水のイメージ。
デスクのフォトフレームにある、数年前の旅の記憶。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月 5日 (日)

小川町*官ノ倉山から

2011_0604_0013ee_2

2011年度はじめての、東武健康ハイキング。
15km程の行程となったが、山道はその内四分の一位だろうか。後半、下りの足許の悪さを除いては軽い山越えだが、頂上間近に僅かに厳しいアプローチがある。いつもながら、急傾斜のルートを張り付くように登っていく姿を見ると、いったい何がそうさせるのかと思わないでもない。私もその列に並ぶひとりなのだが。
山越えを終えると、東秩父村和紙の里へ向かう。和紙漉の実演を見ることが出来た。映像では見る機会があるが、目前で見る機会を得て、誠に興味深い。職人さんの視線が作業のタイミングをコントロールしている様子がよく分かる。東秩父農産物販売所で婦人部の方々が提供する「おやき」を土産とする。手作り感がよく、家人には好評でまずまず。
全行程の四分の三近くが舗道の行程となったが、山道中心の行程との違いを実感する。山道中心で踏破するコースの方が、アップダウンはあっても、負担感が少ない。疲労感とは微妙に異なるところ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月26日 (木)

雑感*何となくエコなこと

我が家においても、地デジ対策を終えた。
本年7月24日の最終ゴールを目前に、これまで当家が必要とするスペック、コストパフォーマンス等を天秤に掛けて周りを見回してきたが、ようやく、最終プランを実行に移した。結果として、オーバースペックな環境は遠慮することにした。

それでも、お付き合いとは言え、正直、いい迷惑で、発生するコストはもとより、時間も神経も浪費したように思う。未だ事情が動いているのも事実で、東京スカイツリーからの本放送は、平成25年を待つことになる。世の中、合点のいかないことが多いことを実感する。

当家が辿り着いた何となくエコな結論は、先行して導入済みの20インチの液晶テレビの他、既存の28インチテレビには地デジチューナーを付け、しばらくの延命を図ること。

結果、液晶とブラウン管で地デジ放送を見比べることになった。
28インチテレビには、地デジチューナーをD端子でD3接続をする。
Dとは言うが、信号はアナログで、デジタルでコントロールされている訳ではないらしい。2001年製造のブラウン管テレビだが、購入当時、何となく拘ったD端子を活用することになった。

地デジチューナーの導入を終え、改めて思うけれど、ブラウン管のD3接続の方が圧倒的に見やすい、疲れが少ない。アナログ出力だからと言うべきか、好みでもいいのだが、液晶で見る地デジ放送のエッジが立ったソリッドな質感とは異なる。やさしくクリアな画面は拾いものであった。せっかくエコな結末でもあるし、長生きしてくれることを祈りたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月 5日 (木)

雑感*陰影のある日常*東日本大震災5

震災の余波は、莫大な電力を消費する日常に、確実に変革を強いている。そして、今、エネルギー政策の根幹をなしていた原子力発電の位置付けを、問い直されている。産業政策から、その電源需要を説き起こし、その役割を語ることは、これまで十二分に行われてきたであろうし、そのひとつの帰結が現状なのだろう。

しかしながら、今ひとつ気づいたこともある。これまで、莫大な電力を消費して、至るところで必要以上の「照度」が確保され、いささか露出オーバーの白飛び気味の光景に疑問を抱くことはなかった。今、周囲を見回すと「節電」は、至るところに「陰影のある日常」を生んだ。ただの薄暗がりは「後退」「停滞」をイメージさせるが、いささか不器用に照度を落としてある場面においても、物の「質感」や「色」がよりリアルに感ずることがあるのは不思議なことでもある。これまでに莫大な電力を費やして与えられた環境のすべてが、発展の果実として、実生活において必要不可欠のものになっているとも思えない。しかしながら、電力の消費という尺度で測られる経済活動が、我が国の経済発展の基礎であるならば、将来の国の姿を展望し、これらを支えるエネルギー政策において、何処に軸足を置くべきかの選択は確実に迫られている。

原子力は「神の火」なのかもしれない、人の歴史は、神の領域に手を伸ばすことによって進歩を手にしてきたのかも知れない。しかしながら、テクノロジーがすでに存在していても、システムとしてそれを運用するためのスキーム、、行政のプロセスに、合目的的な結論を得るためには障害となる欠陥を内包することが必然であるならば、「神の火」は、未だ制御するに至っていないことを、改めて実感した。

いずれ、人は「神の火」を手にするかもしれない。それは、人が進歩を求める歴史の必然だろう。しかし、それには、「種火」を失わないための、謙虚な取り組みの積み重ねが必要なのではないか。我が国では、民間会社から国、内閣総理大臣までの重層的な関与は、それぞれの職務の分掌化が、結果として「安全」を担保し得なかった。「想定し得ない」ということは人間の未熟さであって、神への言い訳にすぎないのかもしれない。また、安全を担保するためには国際機関による技術水準の研究、維持の他、建設における監理、また、その商用運転においても、国際的な監視の下に行われることが考えられるが、コマーシャルベースで行われる以上、その障壁が高いことは明らかでもある。

電力需要を基にした経済発展を維持するために、今、「選択」をなすべき局面なのだろう。原子力発電に言われるところの「3つのE」は、既に国民に対する説得力を失いつつある。「再生可能エネルギー」の莫大なポテンシャルに着目し、そこに大きく「軸足」を移すことは、残された道、というよりも切り開くべき道なのではないか。これまでの、取り組みの歴史がある。犠牲にすべきもの、後退するものも含めて、そこに航海図を描くのが、政治の責任ではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月30日 (土)

雑感*復興への槌音*東日本大震災4 

東北地方太平洋岸の被災地の姿を見る度に、方言を耳にする度に、親類、知人の顔が浮かぶ。幸い無事は確認できた。
復旧ではなく復興か、そんな論調があった。復旧から一歩進めた新たな暮らし方、その新たな街の姿は、「復興」と定義される。その姿が一日も早く実現することを祈りたい。しかしながら、被災地で立ち上がり、これからも力強く生き続ける方々が本来望まれているところは、そこにあった日常の「再生」と「復活」なのだろう、とも思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月 8日 (金)

川越*2011年の春

2011_04120006e_2

梅の花の頃が過ぎて、その枝には新緑が目立つようになっていましたが、気がつけば、いつの間にか、桜も満開のようです。(4/12補訂)
間もなく、東北の地からも、桜の便りが届くでしょう。
今を盛りに咲き誇る桜は、生命力の象徴にも思えます。
また、新しい季節が巡ってきます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月31日 (木)

東日本大震災 3

地元のスーパーマーケットに、真っ赤な、きれいな茨城県産トマトがあった。8個入りのビニール袋をひとつカゴに入れた。普段よりも格安で申し訳なくもあるが、美味しく戴こうと思う。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月19日 (土)

東日本大震災 2

事態の進展は、報道を見る限り、フェーズが移りつつあるのが分かります。被災された方々のご心配も、新たにつのるところだと感じます。

福島第一原発の処理については、いささかの進捗が見られますが、事態の終息を迎えた後には、今回、極めて合目的的に迅速な判断がなされるべきであった意志決定プロセスに対して、客観的な点検と総括がなされるべきと考えます。

また、輪番停電については、市区町村レベルの行政区域の中でも細かなグループ分けがなされていますが、無用な混乱を招いているように見えます。これを中期的に運用することが前提であるならば、例えば、一つの市区町村は、同じグループ設定とし、「面」として停電を管理すれば、そのデメリットを軽減することができる。そして、グループ数を増やして市区町村毎に、確実にスケジュール停電を実施することが(複数グループの同時実施を前提)、安定的な運用に資することができるのではないか。そのように感じます。

被災地の物流については、最大限の配慮がなされるべきことは言うまでもありませんが、その周囲における物流についても、震災がもたらした、需給の不整合は調整される過程にあることが実感されます。

当地では、現在、一部の品目に集中的な欠品が生じている反面(東日本の生産再開、西日本、海外の増産効果の波及はこれからか)、生鮮食料品においては、一部の品目を除いて、顕著な不足感は感じられないこともあり、買いだめ需要は小康状態のようです。
油の在庫が残るSSに列をなす自家用車の列は未だ顕著ですが。

ここで気づいたことは、小売店舗での対応の違いがあること。一部に空の棚をさらす店がある反面、種類は少なくとも、何かしらの商品を並べる努力が見られる店舗がある。もとより、需給に根本的な問題があるわけではなく、「瞬間的な需給の不整合」が発生しているだけだとすれば、市民の「不安心理」との戦いであり、店舗における商品の存在は、心理の改善に大変効果が高いものと感じました。

様々な矛盾が現れる局面であるとも思いますが、被災地の支援の前提として、私たちがその構成員として為すべきことは、今日本が遭遇している事態を、改めて現実として受け止め、これまでの日常生活における、エネルギーや、食材や物資の消費において切り詰めることができる部分を問い直し、それを実行に移すことであると感じます。その結果、「不安感」と「買いだめ」の輻輳による需給の悪化は、逆の回転が掛かるものと考えます。それは、被災地の復興を支える前提となるはずです。

最後に、在日外国人の方々が、母国の勧告、指示で離日するケースが報道されています。そのような事態が日本で起こることは想像できませんでした。複雑なものがありますが、福島原発の事態を筆頭に、私たちにとっても不明瞭に映る事態が進行しているのも事実で、その不明瞭であることをリスクと評価し、これを回避することには合理性はあるのでしょう。さる、ラジオ報道でも分析されていましたが、再び、笑顔で訪日する姿を迎えたいものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月16日 (水)

東日本大震災について

被災された皆様にお見舞いと、亡くなられた方々のお悔やみを申し上げます。報道に見る、あまりに激甚な被害には言葉もありません。
身も震える目の前の惨禍は、現実として認めざるを得ないとしても、神に祈りたい気持ちが交錯します。この時期を乗り越え、再度立ち上がるための道筋を見いだすため、被災された方々とともに明日を信じたいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月 6日 (日)

越生*越生梅林をめぐる里山ハイキング

2011_0305_0007e_2

昨日、東武鉄道主催の健康ハイキングに参加。
正月、松の内の七福神巡りに続いて、越生の里を巡る。
大変多くの方が歩かれていたので、多少驚く。私も含めて、こういう機会を得て、好天の下、軽やかに歩くことに積極的なようだ。比較的高齢の女性の方が、力強く歩く姿に驚かされる。
何だかんだで14kmほど歩き回った計算になるけれど、昨年からの蓄積が生きているようで、さほど心拍も上がらず、息も切れずに越生駅に到着。身体の基本性能は、確実にアップしている、はず。
風の休日 掲載記事

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年2月18日 (金)

越後湯沢*秋山郷切明温泉

2011_02110009e

年が明けて、2月。切明温泉の雄川閣を訪ねた。
上越新幹線の越後湯沢駅から、宿の送迎車に揺られること2時間。その後半は、除雪されてはいるもののすれ違いには緊張が走る山道が続く。坂道の途中から、特徴のある黒い屋根が見えると、旅が終わったという感慨が一瞬漂う。夏から秋にかけては賑わう温泉地らしいが、今は雪の中に埋もれている。

恒例のツアーには変わらぬ顔が揃い、近況を確認し合った後には、概ね昔話がいちばんなめらかな話題となる。長続きするための源泉はその辺りだろうか。確実に年を重ねる中、次に繋がる企画に関心が高まる。まだまだ、先へ進むよう、車輪を回して行こうと思う。

2011_02110034e_2二日目の朝、曇り空は姿を消して、稜線が鮮やかに見える。
雪景色は眩しく、木々は輝いて見えた。早朝の一番風呂を上がったメンバーと吊り橋を渡り、誰も足跡を付けていない新雪の道に足を踏み入れる。
気がつけば、不思議なくらい何も音がしない。川のせせらぎも、雪景色の中に吸い込まれているようだ。

写真の整理を終え、記事を書き上げた今、土産の笹団子はとうに消え失せているけれど、仕入れた純米大吟醸はもう少し楽しめそうだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月16日 (日)

年越しの雑感のつもりで その2

タイトルがいささか時季外れになりかけましたが、前稿は、結果として年末年始とは直接の脈絡はない文章になったことでもあるし、また、多少、書き残してもいましたので。

前稿では、今は高輪消防署二本榎出張所前の高層マンションの前庭として、オープンスペースになっているところに、かつてあった肉屋さんの風景の記憶について触れましたが、今回は、やはり、当ブログの初期の記事で触れているところですが、北側に軒を並べていた蕎麦屋さん、「新月」さんの記憶を付け加えたいと思います。

「新月」さんも、確実に高輪の記憶の一角を占めています。

当家は、出前と言えば「新月」さんの出前メニューを開きました。
中華の出前ならば「宝来」さんにもお世話になりましたが、
今回は「新月」さんについて。

.
思い起こすのは昭和の風景ですが、とある商工団体のHPに、2000年(平成12年)時点での紹介記事がありました。そこには明治40年代の創業とあります。平成元年に二本榎通りの向かいに移転し、高輪消防署二本榎出張所の脇のビルのテナントとなったということ。現在は、そこからも撤退されたようなので、すべては、記憶の中だけの話になってしまいました。

そこは、小学校の頃からの通学路だったので、その前を通りすがるのが生活の一部でした。ある日、あの出前用の四角いお盆をセットする、真新しい「出前機」(若しくは配達機と言うらしい)を積んだスーパーカブが店頭に並んでいるのを目にして、目を見張ったのを覚えています。その働きは、即座には理解できませんでしたが、あの大仕掛けな装置が目を引きました。それ以前は、出前の自転車が並んでいたのか、記憶は遠く霧の帳の向こうで、既に手が届かないところにあります。

入り口には縄のれんがかかっており(普通の暖簾ではなかったような気がする)、店舗の窓枠にも、出前用の四角いお盆の縁を思い起こさせる「えんじ色」がアクセントになっていたような記憶があるのですが。

カレー・ライス(ライス・カレーだったろうか)にも、かつ丼にもグリンピースが載っていました。今でも、無いことはないかもしれませんが、そのスタイルが懐かしい。

カレーライスは、やや深めの丸い皿。ターメリックの色がやや強い、あのカレー色。甘みが勝った赤い福神漬け。具は三枚肉とタマネギだけだったような気がします。現在、主流の色の濃いカレーではなく、蕎麦屋で食べるカレーライスそのままでした。100%とは言えませんが、その味は舌の奥に蘇ります。出前の横長の四角いお盆から降ろされたカレーライスは、3、4粒のグリンピースが載り、カレーの表面に薄く膜が張ったような状態で目の前に現れます。複数であれば輪っぱに載って。多少、冷えると膜が張るのが、蕎麦屋のカレーだと思っていました。正直、外食ではそれ以外のカレーライスには縁がなかったのですが。スプーンをくるんだ紙ナプキンを外せば、子供心に、いつでも戦闘開始状態でした。

また、かつ丼は、子供にはその姿が圧倒的な存在で、目の前に現れると一種興奮を覚えました。閉まりきらないどんぶりの蓋を取ると、半熟の玉子で閉じられたとんかつのボリュームに、幸福感すら覚えたような気がします。そこには、やはり、3、4粒のグリンピースが載っていました。いまでは、三つ葉などが載っているべきものなのかもしれませんが、何か載っているべきならばグリンピースだろうと思います。グリンピース嫌いの方には大変恐縮ながら、私はそう思います。そして、香の物の小皿がついてくる。あの、店の屋号と電話番号が入った細長い紙が巻いてある小皿ですが、蕎麦の出前であれば、七味と薬味の葱が代わりに載っている、それもまた、特別な存在でした。

本来の蕎麦については、ざるや盛り、おかめ、きつね、毛色の変わったところで冷やし中華などいろいろ試しましたが、「たぬき蕎麦」の味と、その彩りの記憶がいちばん鮮やかなものかもしれない。なるとや、色鮮やかなほうれん草が載っていたように思います。あの細かな揚げ玉が、めんつゆを含んで溶けるような舌触りが、何とも言えなかった。やはり、蕎麦なら「たぬき蕎麦」だった。

配達は、いつしか前述の出前機(配達機)を乗せたスーパーカブになり、玄関前に着く音は、待ちかねた子供にとっては、どこか刺激的でした。たぶん、いちばん古いであろう記憶では、温かい蕎麦のどんぶりには、縁がついた塗りの木製の蓋がかぶせてあったかと思います。いつしかそれもサランラップに替わりました。

以上の風景は、前述のHPの記載によれば、平成元年までがひとつの区切りだったのでしょう。その後、大きく姿を変えた街角の変遷は見る機会がありませんでしたが、私とすれば、それはそれでよかったと思います。

.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«年初の始動として