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2006年5月21日 (日)

建築の風景;高輪の息遣い 3

高輪の丘の上にそびえる旧竹田宮邸の歴史は、2006_05040026640竹田宮恒久王から始まりました。恒久王は、北白川宮能久王の長男として生まれ、1906年(明治39)年3月に竹田宮家を創設し、1908年(明治41)年には明治天皇第6皇女である昌子内親王を宮妃に迎えました。

2006_05040031640その新宮邸は、宮内省内匠寮の手により、1911(明治44)年に竣工しました。
当時、既に内匠頭として宮殿建築の先頭に立っていた片山東熊と、天皇家出入りの大工棟梁で、和風建築の第一人者と言われた父清敬の次男として生まれ、親子2代で宮廷建築に携わっることになった木子幸三郎の作品であるということです。渡辺譲の名前も挙がるのですが、中央官衙計画に長く、当時、設計技師として海軍に籍を置いていたはずですので、実際はどうだったのでしょうか。
2006_05040033640_3ネオ・バロックと評されま すが、ヨーロッパで宮殿建築の様式を吸収し、既に1909(明治42)年に東宮御所(現;迎賓館赤坂離宮)を竣工させていた片山東熊には相応しいかもしれません。(フレンチ・ルネッサンスの折衷様式との指摘もあり。)
内部については、高輪プリンスホテルの貴賓館としてウエディングや宴会の用に供されているので、招待状が届いたらデジカメをお忘れなく!

現在洋館だけが、便宜、プリンスホテルの営業施設として、かつての偉容を示し続けていますが、多くの忘れ去られた歴史をどこかにまとっているようで、歴史の証人として語り続ける姿は、どこか悲しげでもあります。
僅かな資料から、プリンスホテルに姿を変える前の宮邸を振り返ることができますが、東から西へ向かい、東側の洋館にぶら下がるように、東南に面して和館群が配置されていました。丘の上からの眺望は、都心のものとは思えないものだったでしょう。

余談ですが、小学生の時分、近隣住民としてスケッチに訪れたことを覚えています。当時から、何かしら感じるものがあったのかと言えば...さあ、どうでしょうか。

宮邸の戦後の命運としては、1951(昭和26)年に西武鉄道に売却された後、1953(昭和28)年には、旧竹田宮邸(37室)を使ってプリンスホテルが開業しています。同時期、先の投稿でも触れた、品川駅前の毛利公爵邸の後には、「ホテル毛里」が営業を開始していたのも何か象徴的です。(具体的、写真・資料で確認したいところです。)
*戦後、西武グループが、あらゆる手法で旧華族・旧皇族邸の邸宅をの呑み込んでいった経緯は「ミカドの肖像」に詳しい。

さくら坂は、高輪プリンスホテルの前で外周道路と合流し、旧北白川宮邸(現;衆議院議員宿舎)、旧鈴木三郎助邸(現;味の素グループ高輪研修センター)の脇を抜けて二本榎通りに至ります。江戸時代から残る、大名屋敷脇の小径であったようです。
2006_05040028640 高輪プリンスホテルの前に、その外周道路から丘の麓に下る階段があります。その麓には、戦後の時代のうねりから取り残されたかのような一角が残されていました。少し俯瞰で分かり難いかもしれませんが、ひとつ深呼吸をして、なにか取り戻したくなるような一瞬でした。

やはり、今回も長くなり過ぎましたので、次の旧北白川邸にまつわる話しは、もう一回持ち越しとします。
*猪瀬直樹氏の「ミカドの肖像」、西武グループの歴史についてH.FUKさんのHP「西武グループの歴史」を参照させていただいた他、その他関連HPを参考にさせて戴きました。

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