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2006年5月18日 (木)

建築の風景;高輪の息遣い 2

品川駅を後に、歩道橋をホテルパシィフィック東京の足元へ渡ると、高輪プリンスホテルの入口である「さくら坂」は目の前です。

ホテル敷地の奥へ悠然と続く低い石垣は、明治以降の御用邸に関わるものだと推測されますが、当時、近隣の住民は近寄り難い静寂な雰囲気であったとの記事もありました。

さくら坂の続くプリンスホテルの敷地には、かつて薩摩藩の下屋敷があり、慶応4(M1)年3月13日には、江戸無血開城に至った勝海舟と西郷隆盛の第1回会談の舞台にもなりました。

会談に至る前のこと、慶応3年10月14日の大政奉還の後には、追い打ちを掛けるように慶応3年12月9日の王政復古の大号令があり、その2週間ほど後には慶応3年12月25日、幕府勢力による薩摩藩邸への焼き討ち事件が起きています。戊辰戦争の端緒ともなった事件ですが、三田の中屋敷の他、芝高輪下屋敷も焼き討ちにあたのかは判然としません。(前述の会談の二日目の舞台は、三田は海側の薩摩藩蔵屋敷といわれ、一日目の芝高輪下屋敷も焼き討ちは免れているのではないかと理解しています。その後、芝高輪下屋敷跡には、1869年(M2)9月、東京府により貧窮者の援助を行う「救育所」が開設されたことが確認できます。
※明治5年の改暦の前、西暦との対応は、記載は省略することにします。

それ以降、この広大な敷地の中で、三つの宮家が生活を営むまでの間については、これと言った材料がありませんが、築山や池に僅かに大名屋敷の名残を残す、文明開化の波間で忘れ去られた、ただ風が吹き抜ける草原であったのでしょうか。(追記)

石垣が一端途切れるその辺りまでは、ほぼ平坦な土地です。
石垣の向こう側には、終戦時、東久邇宮稔彦王の居宅があり(以前の麻布市兵衛町から戦災で移転)、その敷地の主要な部分は、現在、ホテルパシィフィック東京の敷地となっています。明治天皇から敷地を下賜された2宮家の私邸とは違い、天皇の御用邸との位置づけであったと説明されますが、皇籍離脱後、その権利関係が国との間で争いになりました。 (「ミカドの肖像」に詳しい)

また、そこには、老朽化した洋館と和風建築があったことが伺われますが、先の薩摩藩邸の命運を探る中で、その一部が後まで流用されたのではないか...と推測します。(その点、裏はとれていませんが。(^^ゞ)
東久邇宮稔彦王は、後に「白金の息遣い」として触れる予定の、旧朝香宮邸を建設した朝香宮鳩彦王と兄弟(久邇宮朝彦親王の8男と9男、いずれも明治天皇の内親王を宮妃に迎える)でしたが、白金台に、アールデコの装いをまとった理想の宮邸を新築するまでの間、朝香宮も居宅にされていた時代がありました。

2006_05040034730その後、さくら坂は大きく右へ屈曲し、最後に僅かに左へ折れたところが頂上になりますが、そこには、旧竹田宮邸である洋館(高輪プリンスホテル貴賓館)が、高輪の丘の上にそびえています。

思いの外長くなりましたので、高輪の宮家邸宅の縁については、もう一回紙面を割くことにします。

高輪*建築の幻影 (風の休日)
高輪*建築の幻影 2 (風の休日)

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