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2006年8月27日 (日)

建築の風景;高輪の息遣い 6

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(旧朝吹邸 右手の木々の間に垣間見える)

「白金台の息遣い」の続編が、宿題となっています。
まだ、アップしてない理由も、それなりにあるのですが、
宿題として残っているのも、また楽し...(^^ゞ


さて今回は、先に、「建築の風景;高輪の息遣い 5」で触れた
「旧朝吹邸」の来歴に関するディテールが分かってきましたので、
そのお話を少し。

高輪の息遣い5」では、「1925(T14)年の常吉氏の新邸建築の前、父、英二氏に関する年譜によれば、『1915(T4)年 高輪に新邸の建築を着手する』とありますので、向かいの旧鈴木邸の成り立ちを含めて、大正初期から、桂坂の開削工事と関連した動きがあったことが伺われます。しかし、1923(T12)年には関東大震災が襲っている訳ですので、その辺りの前後関係には関心があるところです。」と結んでいました。

あまり資料が見つからず、推論に頼っていましたが、「my books」で紹介しました朝吹登水子氏の「私の東京物語」(文化出版局)に、
その答えがありました。
登水子氏は、旧朝吹邸を建てた朝吹常吉氏の長女で、その時代背景や、日常生活の描写を通じて、少女時代のみずみずしい感性が読み取れる作品になっています。

邸宅に関することを、作品の中から取り上げてみますと、
まず第一に、常吉氏の父、英二氏が高輪に建築を着手した新邸は、桂坂から品川寄りの東禅寺脇(芝区下高輪町五十七番地)に位置する「日本館」で、当時は同じ敷地内ではあったものの、現、東芝高輪クラブ(旧朝吹邸)より早期に建築された、別な邸宅があったことが確認できました。
「品川湾が見える小高い丘の、二千八百坪ほど」の土地を、1897(M30)年に購入したものだそうです。

常吉氏は、英国留学経験からか、父の日本館には馴染めなかったようです。「雨戸を立てるのに書生二人で四十五分もかかるのは非能率的だ」とも話されていたとか。

そこで、常吉氏は、前述の敷地のいちばん眺めのよい頂上附近(東禅寺側から見れば)に、1925(T14)年、ヴォーリズの手により洋館を建築することになりました。

「テラスからは品川湾、そして、右手に竹田宮家(現在の高輪プリンスホテル)や北白川宮家(現在の新高輪プリンスホテル)の御殿が見渡せて、大変眺めがよかった。夜になると、大島に行く明かりのついた満艦飾の船が品川湾を、左から右へ横切っていった。」とのことです。(今では、埋立地は沖へ幅を拡げ、品川周辺には屏風のような高層ビルが屹立していますので、「想像力」を総動員する他はありません。)

高輪の息遣い5」に掲載した写真の中で、「敷地内にテニスコートがあったとの記述があるが(その他資料によれば)、その外柵か、それとも展望施設か」とキャプションを付けたものがありましたが、高台から品川沖を展望できるテラスであった訳ですね。テニスコートは東禅寺側の、洋館より低い位置の敷地にあったようです。

もう一つ、桂坂に面した敷地の「石垣」の成り立ちについて、具体的イメージが浮かんで来ました。同書には、「これらの大石を積み上げるのに、数人の植木屋が何週間も来て工事にあたっていた。」との記述がありますが、あの「石垣」を現出させるため、櫓を組んで、ひとつひとつ滑車でつり上げ石組みをしたのでしょうか、それとも、原動機付きのクレーンがあったのでしょうか。
当時、桂坂は舗装されていない急坂であったとのことですが、ある日、そこにあの石垣がそびえ立った姿を想像することが出来ます。

その他、これまでのところ、邸内の設計、意匠に関する資料があまりないのですが(同書には写真が散りばめられています)、その来歴について多少掘り下げることができ、少しすっきりしました。

(追補) 高輪*高野山と桂坂の姿のこと

*旧朝吹邸に関する記述は、朝吹登水子氏「私の東京物語」より、引用させて戴きました。

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