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2006年8月15日 (火)

雑感*終戦記念日のこと

終戦記念日です。
61年前の8月15日は、どんな夏だったのだろうか。

私は、「戦後」もすでに歴史教科書の事実だけになった後に、
学生時代を送りました。
現在でも、国外に目を向ければ「武力紛争」は未だに存在していますので、間接的に感じるリアリティはあるにせよ、そのような立場からは、日本が関与した「戦争の惨禍」について語る資格があるかどうかは疑問かも知れません。
そんな中でも、先の大戦の戦前、戦中、戦後を生き抜いてこられた方々が、マスコミ等でその心情を明かされる機会に接するにつけ、また近親者の話しを聞くにつけ、その語られる内容には、私たちが
心のどこかに刻んでおくべきべきものを感じることが出来ます。

終戦記念日は、現在の私たちが責任を持つべきと言うか、持つことが出来るであろう「将来」に視点をあて、何を歴史の教訓として胸に刻んでおくべきかを考えるべき日なのかも知れません。

ひとつ、私の胸に残ることがあります。
高校を卒業し、大学生になってからのことでしたか、母校の教師と同窓会の帰りだったと思います。
渋谷の駅前の喫茶店で、生意気な大学生が、「教師として、生徒を殴ったことはないんですか」と、見るからにおとなしい教師に話題を振りました。
その教師は、はぐらかさず正面から語ったので、少し驚いた記憶もありますが、「私は生徒を殴ったことはないよ」「生徒を殴るのに理屈がつくのなら、戦争にだって理屈がつくよ」という趣旨でした。
その当時は、あまり噛み合ったやりとりではなかったと感じていましたが、先に指摘した「将来」への責任を考える時、ひとつの「足がかり」がそこにあるような気がしてなりません。

歴史を遡れば、いくつもの「惨禍」が繰り返され、これからもその選択肢として「武力紛争」はなくならないのかもしれません。また、そこには必ず、「紛争当事者」が主張するところの「論理(正当性)」が横たわっています。腕を振り上げ、その「論理」だけを語る人々の中で、「論理」と引き替えに惹起されるであろう「惨禍」を思い、心を留める冷静さの存在が、「論理」の存在価値、正当性を捉え直すことにも繋がるでしょう。この教師の言葉は、単純ながら、その一面で、的をひとつ射抜いているような気がします。

本日、報道が過熱していた靖国神社のことについては、
先に、旧盆を前に所感を投稿しました。
望まれるのは、誰しもわだかまりなく、戦没者の追悼に思いを致すことができる環境を、国により整備されることだと感じています。
国民には等しく、それぞれの心情、立場で戦没者を追悼する権利があるとともに、なによりも、私たちの歴史として、
「忘れない」ということが原点であると考えることから。

終戦記念日の所感として。

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