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2007年1月29日 (月)

建築の風景*高輪の幻影 (後編)

2006_05260055
(正面)高輪プリンスホテルさくらタワー (右)ホテルパシフィック東京

先に、「建築の風景*高輪の幻影」として、品川駅前のホテルパシフィック東京の裏手、同時に高輪プリンス、新高輪プリンス、併せて品川税務署の裏手にもあたる(というとその真ん中ですが、品川税務署脇から道が繋がっている)、鬱蒼と木々が繁茂する一角で、高輪の歴史の番人のような「痕跡」の存在について書き出しましたが、どのように結末をつけるべきか悩むところでもあります。

前回の問題意識を再掲しますと、
「現在、ホテルパシィフィック東京の敷地となっている土地は、戦後、最後の住人として東久邇宮稔彦王が居住されていた御用邸の敷地であった土地の大きな部分を占めています。
その背後には、道を隔てて(品川税務署脇に通ずる)、現在、鬱蒼と樹木が繁茂した、公園として管理される一角があります。
戦後の写真資料から推測しますと、ホテルパシィフィック東京の敷地の一部からこの一角に掛けて、御用邸の建築物が存在したものと思われます。(そう断定する自分も怖いけれど、何ともそう思えるのも事実で...(^^ゞ)*その後の、西武鉄道、京浜急行を主役とした、変遷の歴史は、猪瀬直樹氏の「ミカドの肖像」に詳しい。

さらに、遡れば薩摩藩下屋敷のあったことでも知られ、明治から昭和に掛けては、三つの宮家の存在があり、戦後、西武鉄道によるプリンスホテル、京浜急行によるホテルパシフィック東京の開業というダイナミックな展開を見せた歴史があります。
その展開の中で、今回着目している一角は、切り取られたようにその歴史の一端を懐に抱え、そっと息遣いをしているように思えます。

さて、今回の本論ですが...。

P061122114800
前回、「(その痕跡の)上部には自然石で組まれた「水路」の様なものが続いて見られ、高低差を考えた「落水」が仕組まれていたことが伺われます。」と推測を展開しました。
僅かばかりの材料ですが、今回はその検証をしてみたい思います。
この一角は、公園として一応整備されていますが、足元が悪いのでご注意下さい。(^^ゞ
P061122106800
先に指摘した「水路」らしきものの検証は、現地では登ったり下ったりしましたが、今回は、水源(らしきところ)から川下へ向かいます。
この地域は台地へ向かい高低差がありますが、この一角の頂上部よりやや下ったところに、水源らしきところがあります。(地形から、湧き水があったことは充分に想定できますね)
写真中央やや右上に、水の吐出口を意識させる石組みがあり、写真左下に向かって水路らしき石積みが見られます。
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視線は川上のまま、位地は川下へ向かいます...。
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全体に、自然の流水を模した流れを意識していることが伝わってきますが、この部分については、明確な「意図」を感じるころができます。
右手には飛び石が配置されていますが、この傾斜地の一部に存在する理由は、ここに水路があり、ここを渡るためであることが明確なのではないでしょうか。(この傾斜地の途中で、斜面に沿った枯山水とも思えず...)
左脇の石が、上面は平滑に、左側をほぼ直角に加工されていますが、何かの二次的利用でしょうか。
P061122109800
さらに川下ですが、流路の途中で、滝壺のように一時水が滞留していたところかもしれません。
P061122110800
改めて、川上方向を見上げてみれば...。
P061122114800_1
ということで、終着点となりますが、ここには、この石組みの周りに池があったのでしょうか。

何にしろ、非常に地味な話しで恐縮でしたが、高輪プリンスホテルのさくらタワーが見下ろすこの一角のお話でありました。

~「風の休日」に関連記事を掲載しました~(^^ゞ
高輪*建築の幻影
高輪*建築の幻影 2


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コメント

Kさん コメントありがとうございます。

>高輪公園横のシュロが庭に植えられていた木造住宅を撮影しようとしたら消えていました。

プリンスホテル前の階段下の一角だと思いますが、敷地の向こう側にあるエントランス部分にも歴史を感じさせるものがありました。
広い敷地内に二軒長屋風の建物が並んでいましたが、エントランスと共に、終戦直後に存在していたことまでは確認できます。
再開発の情報は当ブログのコメントで戴きましたが、無理矢理都合をつけて、ともかく取り壊し途中の光景を記録してきました。高輪公園近隣の歴史と相まって、その辿った歴史を感じる一角でした。長年の歴史が断ち切られる光景は、喪失感を生むと同時に、歯車がまたひとつ回ったことを感じるところです。

>こちらの記事に誘発されての二本榎訪問でした。

結果として、この小さなスペースが、多少なりとも手触り感のある、共感を頂けるものとなったならば幸いです。

ブログの記事を拝見致しました。
作品関連のデータを参照させて頂きます。

投稿: landscape | 2008年9月25日 (木) 00:11

追補
 9月22日サイクリングの画像をブログに
アップしました。
 4,5年前に執筆した文も「添付」しました。
そこに古井由吉や川本三郎の関連文献も明記してあります。

投稿: K | 2008年9月24日 (水) 15:07

 22日の午後に運動不足解消を兼ねて、世田谷のはずれから準スポーツ自転車で港区を回りました。(三鷹のはずれに10分で行ける位置ですが)
 環八、環七を越え旧山手通り「西郷山公園」で一息、散歩に来た渋谷住人の方と富士山の展望に関する話題を契機におしゃべり。
 明治通りからいったん麻布二の橋まで行き月末に会う韓国の友人との待ち合わせポイントを確認。
 高輪を目指し魚藍坂越え(急坂だった記憶なし或いは此の坂は帰りに使わなかった。子どものころは国道一号線を往還していた)、二本榎通りに出ましたが、こんなに細い道! というのが再訪の印象。西郷山の休息含めて2時間弱。
 通りもあっという間に過ぎ、高輪消防署前。
前回に寄った明隣堂跡(間に幾つかの店舗変遷はあるでしょうが)のカフェは消えていました。
 今は弁当店?

 警察署横を過ぎて桂坂の途中、こちらのブログで画像アップの階段を自転車を抱えて降り、高野山下から東禅寺横に抜けました。
 洋館を確認、高輪公園横のシュロが庭に植えられていた木造住宅を撮影しようとしたら消えていました。
 土地の掘り返しが始まったばかり。赤土がむきだしになっていました。大手不動産会社によるマンション建設のようです。
 階段を上がりプリンスホテル前、味の素所有の記念館から旧二本榎西町の前を通り消防署の隣のマンション一階の小さなカフェで一休み、店主さんは学年で一つ下の方のようで、近隣の消息に関して当然ながら詳しい情報をお持ちでした。
 こちらの記事に誘発されての二本榎訪問でした。

 古井由吉に関して、文にまとめたのがあるのですが探してみます。
 評論家の川本三郎は高輪台小の裏から泉岳寺に抜ける道と桂坂から横に入る路地に関して、それぞれ別にエッセィを書いています。
 時間の次元をこえる感覚に関して。

 私なりに解釈をすると谷中、根津は空間が見渡せるが高輪のエリアは「屋敷」や「邸宅」の塀で閉じられた感覚から、発想するのかと思います。
 私の場合、桂坂は小学校低学年までは怖いというイメージが定着していました。

 他に作家では1920年代の牧野信一が魚藍坂辺りに住んでいた時期もあり掌編で「泉岳寺裏」という作品を発表しています。
 岩波文庫に収録されていたと思います。
 
 

投稿: k | 2008年9月24日 (水) 06:17

Kさん コメントありがとうございます。

>余談ですが、作家の古井由吉は高松中学の一期の卒業生でエッセィにてこの場所ではありませんが通学路のことや中学の近くにあった友人? の家のことなどを描写しています。

もし、お手元で書籍名、作品名等がお分かりでしたら教えて下さい。

>プリンスホテルの高野山側の傾斜地に長らく、建物を壊して瓦礫が残されたままでしたが(社員寮なのか? コンクリートの瓦礫)、いつの間にか整備されていました。

現・高輪公園が整備される前、単なる空き地だった頃(何かの歴史を絶たれたような荒涼感は、少年にも感じられましたが)、傾斜地の下に、何やら瓦礫があったことは覚えています。あのことかなと。あの斜面も、どうやら公園整備と同時期に整備されたようです。
ホテル前面の傾斜地のところは、Kさんの陸測図には蜂須賀家の名前が出てきますが(元徳島藩主の家系の?)、戦後まで、確かにそれなりの邸宅はあったようです。公園敷地そのものは別の個人所有であったようですが、昭和36年からは東京都交通局が所有し、昭和45年には港区の所有となっていますが(高輪公園の沿革案内より)、結局のところ何だったのでしょうね。(少年の頃、防空壕のイメージがあったのも事実ですが)

その他、陸地測量図に関する情報を戴き、ありがとうございました。

投稿: landscape | 2008年9月23日 (火) 19:19

私にとってこのエリアは「二本榎本町」から抜けて空間的な広がりを大きく感じる「異界」でした。
 その境界は「味の素・社長」邸であり、ホテル前に出たときの広がりを大きく感じました。
 その「広がりの景観」は通るたびに頭の内で再認識されました。
 デジャヴとは「反対」の意味になるのですが日常的に通る場所でありながら「懐かしの記憶」が繰り返される空間でした。
 
 余談ですが、作家の古井由吉は高松中学の一期の卒業生でエッセィにてこの場所ではありませんが通学路のことや中学の近くにあった友人? の家のことなどを描写しています。
 古井の場合、坂道を登りきったときにデジャヴ的な感覚を持つとも別のエッセィで記していました。

 70年ごろでしたか、「ホテルパシフィック」が建設される前は塀が続き「そちらの」敷地内は見ることができませんでした。
 プリンスホテルの高野山側の傾斜地に長らく、建物を壊して瓦礫が残されたままでしたが(社員寮なのか? コンクリートの瓦礫)、いつの間にか整備されていました。
 小学生の視点なので、実際には短い工期だったのかもしれませんが。

http://yamanohon.exblog.jp/7782460/

 陸地測量図は「一万分一地形図東京近傍十四号(共十九面)」東京府武蔵国 荏原郡 東京市
大正五年第一回 修正測図

 肝心の作成年が切れているのですが、明治43年ころか?

必要な部分を拡大コピーしてあちこちにファイルしてあるので「見つかった」部分の拡大コビーをもとに。
 そのうち別の部分も出現すると思うのですがる

投稿: K | 2008年9月21日 (日) 08:55

この点、少しフォローします。
これまでの整理で手短に纏めますと、この一角は、終戦時には北白川宮、竹田宮、東久邇宮の三宮家が邸宅を構える敷地であったわけですが、その後の経緯により西武鉄道、国、京浜急行が、その権利関係の当事者となりました。その変遷を辿ると、西武鉄道と京浜急行資本の各々のホテル建設用地に挟まれた国有地の一部に品川税務署が設置されたことにより、結果、残余として開発から取り残されていた場所という理解になります。そして、近年、港区が国より有償譲渡を受けたような記事を、どこかで見ました。
近隣にお住まいの方、お住まいであった方は、この一角の変遷にはどこか歴史を重ねるところがあるのではないかと思います。

投稿: landscape | 2008年9月20日 (土) 16:09

失礼しました。
早とちりでした。税務署の奥の公園は
いつ開園したのでしょうかね。
 全く気づきませんでした。

投稿: k | 2008年9月20日 (土) 00:29

Kさん コメントありがとうございます。

> 「水路」考察、すごいですね。
> 私のブログに画像として一部アップの陸測図を見ると「蜂須賀邸」のエリアですね。
> 建物本館との位置関係が不明ですが、「裏」庭なのか、かすかに等高線が見えますが…

「水路」については、目的意識をもって歩き回った結果、そこに行き着いたということでしょうか。推論の部分も多いのですが、残存資料もあるようなので、時間が出来たならば、もう一歩踏み込みたいと思っています。気がつかないうちに姿を変えて、その痕跡は、この記事の記録だけになってしまいそうな気もしますが。

場所については、ご指摘の「蜂須賀邸のエリア」ではありません。
そちらは、グランドプリンスホテル高輪の北側ですが(高輪公園の脇)、記事に書いた遺構は、ホテルをはさんで南側にあたります。(ホテル敷地外ですので、念のため...)
現在、港区管理の「高輪の森公園」となっています。
品川駅前から柘榴坂を上がり、途中、品川税務署とホテルパシィフィック東京の間の道を入れば税務署の裏手にあたります。

投稿: landscape | 2008年9月18日 (木) 12:35

 他の項目でお返事をしていないので恐縮ですが…
 「水路」考察、すごいですね。

 私のブログに画像として一部アップの陸測図を見ると「蜂須賀邸」のエリアですね。
 建物本館との位置関係が不明ですが、「裏」庭なのか、かすかに等高線が見えますが…
(コメント者アドレスに当該項目を貼り付けました)
 
 この公園の北北西すぐに下記、洋館があります。3年ほど前に外側から見学をしました。
 コンテンツに地図、建物図面あり
http://terminallounge.jp/
 
 現役で貸しギャラリーなどで使用されています。料金がアップされていないので問合せをしたら非営利と営利で区別をしていること、
 こちらから、例えば日曜午後、出版パーティーで3時間使用での料金を問い合わせたら、常識的な価格でした。
 また見学が可能かどうかの問合せには「下見」ということで、前日に申し込めば時間調整をして案内をするというこ(常駐管理人はいない、オフィスは近くにはないという理由で)

 古い洋館好きの「off」会に利用できそうですね。

 以下は同サイトのテキストから再引用です。
 洋館の歴史
明治時代末期に建てられた和洋折衷の住宅である。
施主は徳川慶喜の医師を勤め、また三井家にも出入りしていたと伝えられる木村春東氏であった。
晩年の春東氏は印刷業や銘木商などの幅広い事業を展開し、八重洲に本邸と店を構えていたという。
高輪のこの住宅は、別邸として建てられたものである。材料を集めてこの家を建てるのに五年の歳月を有したと伝わる。
(出所:「港区の歴史的建造物」)

投稿: K | 2008年9月18日 (木) 10:58

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