« 閑話*ちりとてちん 2 | トップページ | 閑話*ちりとてちん 3 »

2008年5月 5日 (月)

路地の風景*二本榎、清正公大祭の頃

2008_0504dscf0053_3

昨日、2年ぶりに高輪の二本榎通りを訪れました。
私の過ごした頃とは様相が変わっていますが、今は商店街の方々がメリーロード高輪という名称で地域振興に取り組まれています。

5月の4、5日には、清正公様の大祭で賑わいが戻ります。
この時期に合わせ、何かしら、ついでを見つけて散歩に足を伸ばすのが楽しみで、結果的には、何年かに一度は訪れることになります。故郷としての、何かしら昔の面影を探しているだけなのかも知れませんが。
次も高輪編の記事を用意したいと思います。

そうそう、和菓子処の柳屋さんで柏餅を購入し、おじさんと昔話。
それから、知り合いの消息など、長々と。少し営業妨害だったかもしれません。毎度すみません。

柏餅は確かな歯ごたえで(堅いという意味ではなくてね)、こしあんはなめらか、上品な甘さでした。


*関連記事*
高輪*高野山と桂坂の姿のこと
高輪*建築の幻影 (「風の休日」より)
高輪*建築の幻影 2 (「風の休日」より)


.

|

« 閑話*ちりとてちん 2 | トップページ | 閑話*ちりとてちん 3 »

コメント

Kさん フォローありがとうございます。

>白金郵便局は道路拡幅と関係なかったと思います。
>明隣堂書店の「新」店舗は、二階部分が新鮮でしたね。
 
 明隣堂書店の「新」店舗のオープンは知っているのですが、道路拡幅についての記憶がなく、その辺の関係が未整理というところです。「新」店舗の2階は吹き抜けで、2階に上がる小さな螺旋階段がありましたね。吹き抜けで、回廊形式に書架が並んでいました。今考えても斬新でした。

投稿: landscape | 2008年9月20日 (土) 08:34

白金郵便局は道路拡幅と関係なかったと思います。
 老朽化か、郵便局の統合? 

 明隣堂書店の「新」店舗は、二階部分が新鮮でしたね。

 作家の柴田錬三郎がよく近辺を散歩していました。明隣堂に寄っていたと思います。

 明隣堂書店から先の商店の記憶が「回復」しません。
 同学年では、その先にY沢君(ペンキ屋さんか? 思い違いか)
 さらに行くと電気店の金K君、高輪教会の並びで「レコード店」を後年始めましたが。

 タレントになった関根君は同級生ではありませんでしたが、「箱根ニコニコ学園」での余興では目立っていた記憶があります。


 

投稿: k | 2008年9月20日 (土) 00:41

Kさん コメントありがとうございます。
・「明学正門前の道路拡幅」というのは、桜田通りのことですよね。拡幅工事がされた時期というのは、東京オリンピックのときでしょうか。明治学院側も白金郵便局側も双方ともセットバックしたものか。よく理解しておりませんので、そのあたりの様子も知りたいところです。
・「明隣堂書店が警察署前に移転した」とき、その近所に住んでおりましたので、少年の頃、工事の進捗を気にしながら、わくわくしたのを覚えています。ネットなどない時代でしたので、いたく文化的な環境を手に入れたというか、また、近隣が賑わうことには、子供心に高揚感がありました。ついでに、明隣堂書店の並びを振り返れば、その隣に八百屋さん、薬局、時計屋さん、酒屋さん(味噌を樽から小売りしていた)、間口の狭い魚屋さん、薪炭店(?)等がが並んでいましたが、後日、再訪したとき、そのすべて消失した姿を見たときには呆然としました。その隣のブロックに、おもちゃやさん(「はとや」)のショーウインドウが残る民家が現存するのが目を引きます。ちょっと、粋というか、気の強そうなおばさんがやっていました。ショーウインドウに残るはとのディスプレイは、開店当時のままでしょう。
・「関根君の父親は消防署員で」とは、コメディアンの関根勤さんのことですね。先輩にあたりますが、高輪台小学校、高松中学校でもひょうきんな生徒だったのでしょう。

投稿: landscape | 2008年9月17日 (水) 21:41

 深夜に引き続き、朝から読ませてもらっています。
 上行寺の移転ははるかバブル以前ですが、
跡地全ての大型マンション計画が破綻した原因は、情報として聞いたことがありません。
 二本の「榎」の前に完成図の大きな看板が建てられていました。
 プレハブの現場事務所が放置されドアも開けたままだったので、丸めて残された青焼きの設計図面の大判の用紙がめずらしく持ち帰った記憶があります。
 その後、どのような「処理」過程かは子どもの立場では知らず、最終的に明治学院のグラウンドになったと思います。

 1960年の高輪台小学校の校舎と校庭、桜の樹は劇映画の映像に残されています。
 小林圭樹と高峰三枝子主演の「名も無く貧しく美しく」のハッピーエンドバージョンの舞台として使われ、成人した警察官役の加山雄三(映画デビュー作)が桜の樹々の下で小林圭樹、高峰三枝子と語らうシーンのはずです。
 数年前、ケーブルテレビで見たときは、エンディングが全く異なり高峰三枝子が交通事故死をするというシーンもあり戸惑い、インターネット検索をしましたが二つのバージョンがあったということでした。ちなみに他のシーンは高輪とは無縁です。
 校庭での撮影場面は微かに覚えています。

 かつての白金郵便局の反対側は確かに店舗が落ち着かない一角がありました。
  タカナワダイミヨヤさんが言及しているのは(記憶が混同しているかもしれませんが)私にとっての「原風景」は間口の狭い靴屋さんだったような記憶があります。その後か少し明治学院寄りか、小さなパン屋さんになりました。
「フレンパン」といって確か「主婦連」関連の経営か? 長くは続かず。
 坂を下った角地は(明学の向かい)剣道の用具がメインだったのか、店の全体像は記憶にないのですが、日常生活関連の店舗ではありませんでした。同級生の親戚の家だったので、たまに木造建築の三階の部屋まであがり鉄道模型のコレクションを見せてもらいました。

 明学正門前の道路拡幅で向かいに位置していた明隣堂書店が警察署前に移転したわけですが、その前は普通の民家で生垣があり庭がある住宅でSPレコードをコレクションしていたのを覚えています。
 今は超高層マンションに圧倒されるロケーションでカフェですね。
 関根君の父親は消防署員で消防署に向って左側の奥に官舎なのか? 住んでいました。
 新月の隣は駄菓子屋さんでした。
 
 

投稿: K | 2008年9月17日 (水) 08:20

あの「丹波町公園」の右脇の小道(辺りが暗くなると、とても薄気味の悪い小道でした)を抜けて、突き当たりを右― それでまた突き当たり(正面には木造平屋建ての、とても小さな工場がありました―)を左に曲がると、二本榎へと出る道は2本ありました― 1つはそのまま真っ直ぐ、急勾配の狭い階段を登って行くルートと、もう1つはその階段の手前を右に曲がって、泥道を抜け、両側に墓地のある、1段1段がとても広くて大きい緩やかな階段を上がって行くルートと―… で、その急勾配の階段の方から二本榎へ出ると、ちょうど正面が「承教寺」の辺り― もう1つの、両側が墓地の階段から二本榎へ出れば、右角が小さな魚屋さんで、正面は多分―…歯科医院か何かだったでしょうか― 確か小さな医院が開業してた様な気がします― そこから右隣へと順に、煎餅屋さん、蒲団屋さん、そして近藤文具店だったでしょうか― ちょっと記憶が不確かです―…
そういえば小学校時代、「防災頭巾」というモノがありましたが―… 普段は椅子の上に敷いて、座布団として使い、災害時(まぁ主に避難訓練時)にはそれを広げて、頭から被るという― あれを発明したのは、高輪台小学校の女性の先生で、確か―…桜井先生でしたかねぇ???― あの先生は、私の時代にも学校におられました― ただその後、辞められたコトをハッキリと覚えているので―…恐らく昭和52~4年頃には、(確か転勤ではなく)定年退職されたかと思われます―

投稿: タカナワダイミヨヤ | 2008年7月24日 (木) 18:24

タカナワダイミヨヤさん 今晩は
いくつかお尋ねの件も含めて。 

>ちなみにその左側にも、カウンター席がわずか3~4席しかない、非常に激狭なラーメン屋さんがあったのを、覚えておりますでしょうか?―
 判然としません。「何やら怪しげな店舗」のすぐ裏に路地がありましたが。

>確か1軒民家があったかと思われます
 これは記憶にありますね。その脇には道路下に降りるスロープがあったような。

> その先が、見た目は工場跡地の様な雰囲気でしたが、明治学院所有の小さな広場―…というかテニスコートみたいなスペースがあった様な気が致します
 これが、二本榎の名前に纏わる「上行寺」の跡地ですね。角地のマンション建設に先立って、発掘調査が行われたらしい。

>それに工具ペンキ屋さん、その先が「丹波町公園」へと下る階段でした
 公園の名前は忘れていましたが、この公園も守備範囲でした。公園の右脇を道なりに辿ると二本榎通りに通じる小路がありました。公園前を左に進むと、タカナワダイミヨヤさんの本文に書かれた風景でしょう。

>向かい側の承教寺とは、多分あの「赤門」のコトでしょう― 多分あの郵便局と薬局の間の、お寺のコトでしょう
 そのとおりです。薬局は現存しせんが。

>谷山写真店とは、その向かいの―…店内に入ると、現像液の臭いがプンプンしていたトコロですよね― 向かい側の通りは右から薬局、赤門、郵便局、ガソリンスタンド―…多分金物屋さんとかがあって、その先が芝信用金庫―… あの辺りのコトではないでしょうか?― アタリですか?―
 ご指摘のとおり、あの辺りのコトです。

それと、先のコメント投稿で気にされていた個人情報に近い記述は、最低限のメンテはしておきましたので、ご了承下さい。

投稿: landscape | 2008年7月23日 (水) 21:21

先日書き込みをした様に、まずあの歩道橋の角にはステーキ屋さんがありました― ただあそこの店舗は、まぁ人通りが悪かったせいか、或いは風水的に何か大きな問題でもあったのか―…オープンしてもすぐに潰れちゃうんですよね― それで暫くすると、また新しいステーキ屋さんかハンバーグステーキ屋さんが店を開けて―… それでまた潰れる、別のヒトが開ける、潰れる、また別のヒトが開ける、また潰れると―…その繰り返しでした― またオーナーさんが何人代わっても、常に営業の時間帯が夕方遅く(最悪夜の8時以降)から深夜まで―…なので昼間は真っ暗闇の状態でしたから、それで「何やら怪しげな店舗」と感じたのかも知れません― ちなみにその左側にも、カウンター席がわずか3~4席しかない、非常に激狭なラーメン屋さんがあったのを、覚えておりますでしょうか?― あそこも殆ど全く同じ様なモノで、新しいヒトが店を開けては去り、開けては去り―… どうやらあそこの一角は、商売人にとってはかなりの鬼門であった様です―
まぁそれはそれとして、その不幸な店舗群の隣が―…つまり清正公方面へ向かって隣というコトですけど、確か1軒民家があったかと思われます― その先が、見た目は工場跡地の様な雰囲気でしたが、明治学院所有の小さな広場―…というかテニスコートみたいなスペースがあった様な気が致します― その先の少し奥まったトコロには、バブル期を待たずしてとっくに「幽霊マンション」と化してしまっていた、何やら訳アリ臭い建物が―… そして自動車修理工場、正満寺、ある時期には1階がインベーダーゲーム屋さんだった細長いビル―…ちなみにここの建物の所有/居住者は、恐らく在日の方でした― もしかしたら韓国/朝鮮系ではなく、台湾の方だったかも知れません― それに工具/ペンキ屋さん、その先が「丹波町公園」へと下る階段でした― その先はいつもシャッターが閉まっていた建物(2階…厳密にいうと実は3階ですが、そこに老夫婦が住んでいました―)、たった4坪程の細長い3階建ての民家、車を4台しかとめられない狭い駐車場、何やら正体不明/用途不明の建物(アタシが高輪を立ち退く直前には、1階がラーメン屋さんになっていましたが…また一時期はスポーツ用品店や釣具屋さんだったコトも…) 、右斜め下へと下る坂道、1階が1台のみとめられる駐車場/2階は居住スペースであった建物、タバコ屋さん兼パン屋さん、なだらかに下る小さな坂道(突き当たりには当時有名だった田中角栄のソックリさん/本業は葬儀屋さんのご自宅が―)、とても家族が住んでいたとは思えないヘンテコリンな建物、物凄く細い小道、お寺(多分源昌寺という名前であったと思います―)、地面が砂利の駐車場、恐らく7階建てくらいの大きな団地の様なアパート(1階には右から雀荘/所謂スナックかパブみたいなお店/パン屋さん兼お米屋さんがありました)と―… その巨大なアパートが角で、その角を右へと上がる急な坂道が「天神坂」でしたね― 坂道を上がりきったトコロが二本榎通り― 左側が「とらや」で、右側は―…多分歯科医院でしたか― 昔1度通って、余りにも治療の仕方が下手だったので、以降は行くのを止めましたが―…
こうしてあの桜田通り沿いにあった当時の景色を羅列してみると、かなり鮮明に覚えてはいるワケですけれど、その風景も今ではスッカリ消え失せて、全てなくなっているのでしょうね―… 多分今でも存在しているのは、正満寺と源昌寺という、2つのお寺くらいでしょうか―
ところで谷山写真店―…何となく思い出しました― 向かい側の承教寺とは、多分あの「赤門」のコトでしょう― アタシ達は当時、皆そう呼んでおりました― 夏場に幾つかの露店が出ませんでしたか?― ほんの小さな規模でしたけれど― 多分あの郵便局と薬局の間の、お寺のコトでしょう― 昔薬局の入口には、「緑色のゾウ」の人形が置いてあった様な―… 谷山写真店とは、その向かいの―…店内に入ると、現像液の臭いがプンプンしていたトコロですよね― 左側には、1年中「選挙ポスター」が貼りっぱなしの、多分婦人科系の医院であった様な―…これは不確かな記憶ですけれど― ですが右側には駐車場があったのではないかと思いますが― 向かい側の通りは右から薬局、赤門、郵便局、ガソリンスタンド―…多分金物屋さんとかがあって、その先が芝信用金庫―… あの辺りのコトではないでしょうか?― アタリですか?―

投稿: タカナワダイミヨヤ | 2008年7月23日 (水) 12:21

タカナワダイミヨヤさん。
こんばんわ。

私は高輪を離れたのはバブル期前で、その変遷は、何年かに一度、ふらりと再訪を重ねた際に実感していました。

昔の息遣いを知っている方々にとっては、高輪を後にされた方、残られた方とも複雑なものがおありだと思います。blogの場を借りて、昔の記憶を手繰りながら独り言を重ねてきましたが、きっかけとして、具体的なお話を伺うことができたことは意味があったかなと思っています。

現在の高輪の実際について語る立場にはありませんが、一丁目の桜田通り沿いの数棟の高層マンションの他、二本榎通り沿いに多くのマンションが建ち、また多くの商店や住宅が消えたことが大きな変化だったのでしょうね。消えた商店、住宅と友人、同級生の顔が重なります。

これからも再訪の機会があるのかどうか分りませんが、訪れる時は、変わらないものを探しに行くような気がします。

投稿: landscape | 2008年7月23日 (水) 00:23

もしバブルがハジけていなければ、あの辺一帯はもうとっくに全て崩壊していたのでしょうね― つまり桜田通りと二本榎通りの間の、あの1丁目の1ブロック全体のコトですが―… まぁそれは言葉を言い換えれば、「発展」という意味にもなりますけれど―… 恐らくあの後バブルがハジけて、中途半端に残るモノだけが残ってしまっていた、という状況だったのではないでしょうか― 当時アタシはほんの若造でしたけれど、昔からの高輪の町並みは全て崩壊して、極端なコトを言えば、これから高輪の町は超高層マンション街へと生まれ変わる、みたいな勢いというか噂でしたからね― アタシの住んでいた一画は、もうホントに早々と地上げを食らって、多分1番最初に立ち退き/引っ越しを余儀なくされたグループだと思いますが、あの後バブルがハジけて、これまで中途半端に高輪の町に取り残されて来たヒト達の生活は、より大変だったのではないのでしょうか― 当時地上げに引っ掛からなかった区画に住んでいたヒト達が、皆口々に‘周りのヒト達がいなくなってしまうのは淋しい―高輪の町に愛着はあるけれど、どうせ皆いなくなってしまうのなら、ウチも何処かへ引っ越したい’と嘆いていたのを思い出します― 勿論当時立ち退きを余儀なくされたアタシ達のグループは、皆それなりの「立ち退き料」を貰って、高輪の町を離れ、方々へと散って行ったワケですけど、誰1人として喜んで町を出て行ったモノはおりませんでしたね― 当時は皆「カネの問題じゃなかった」んです― 多額の立ち退き料を手にするコトよりも、高輪の町に対する愛着であるとか、また近所に住んでいるヒト達との付き合いであるとか―… そういうモノの方が大切な時代でした― そういった意味では、非常にイイ時代だったと思いますね― またそういう時代の高輪に生まれ育ったからこそ、未だに心の片隅の何処かに「高輪」という2文字が残っているのだと思います―
…ちなみに2丁目や3丁目、それに4丁目の方は現在どの様に変貌してしまっているのでしょうね― 写真を拝見するかぎりでは、3丁目も大きく変わってしまったかの様に見受けられますが―… 高輪台小学校の裏門から(突き当たりの幼稚園だか保育園を左に曲がって)泉岳寺方面へと下る急な坂道や、また屋上でローラースケートが出来た高輪児童館へと下りる(厳密に言うと洋館の間を上がって、突き当たって下る?)、これもエラく急な坂道などは、まだ現存しているのでしょうかね― 今思うと高輪という町は、不自然な程の、急な坂道が多かったですよね― 傾斜の角度が恐ろしく急な―… それに高輪台小学校の真裏の、あの大きな窪地地帯も何だかヘンテコなトコロでしたよね― あそこには1人、同級生が住んでおりましたけどね―…

投稿: タカナワダイミヨヤ | 2008年7月22日 (火) 20:31

タカナワダイミヨヤさん
ご覧頂いたようで、どうもです。

>1番ビックリしたのは、高輪消防署を写した写真です―… 手前に何もなくなってるんですね―

二本榎通りの高輪消防署の交差点から、桜田通りの明治学院前の交差点まで(歩道橋の角まで)、ある高層分譲マンションの敷地となっています。ごく最近のことですね。そこにあった生活の息遣いは、まるで、ケーキナイフで切り取られたかのように消えています。
バブル期からの変遷の最終結論ということらしいですね...。

投稿: landscape | 2008年7月21日 (月) 17:43

ちょっと高輪の路地の風景、詳しく拝見させて頂きましたが―… やはりとんでもないコトになってるんですね― かなり哀しい風景になってるなぁと感じました― まぁ今も高輪に住んでるヒト達にとっては、日々それなりに快適になった部分もあるんでしょうけれど―… 記憶が曖昧なトコロもあるので、やはり直接現場へ行ってみないと分からない部分もあったりするのですけど、1番ビックリしたのは、高輪消防署を写した写真です―… 手前に何もなくなってるんですね― 角にあった小さなケーキ屋さんも、また文面にもある様に、平賀の床屋さん(奥さんの甥っ子が、アタシと同じスイミングスクールと書道教室に通ってました)も「赤ひげ」みたいな外科医院も―…それに松坂屋カメラもないんですか― あの通りにあった店は1軒もなくなってる?―… カウンターだけの、スゴく小さなラーメン屋さんがあったんですけどね― アタシの家の近所に住んでた夫婦が、細々と経営してた店です― 明治学院へ渡る歩道橋の下に、現在何やら怪しげな店があるとか?― そこは昔、非常に短期間ではありましたけど、深夜まで営業してるステーキ屋があったんですよね― そこの店のシェフに、小学生の頃「特製ドレッシング」の作り方を教わりました― 今でも自宅でステーキを焼く時には、我が家には欠かせない美味しいドレッシングです― 向かい側の、郵政宿舎の手前にあった―…ちょうど郷ひろみの実家があった路地へ入る辺りも、大きく様変わりしているコトが写真から良く分かりました― 「はとや」も懐かしいですね― 発泡スチロール地の様なモノで出来たプロペラ飛行機や、超ミニチュアの戦闘機の玩具を沢山買った思い出があります― 唯一‘あぁ、ここは昔と全く変わらないなぁ’と感じたのは―…高輪警察と教会の間の、ほんの小さな1角―… 真っ赤なポストも見えましたしね― 子供の頃、そこの前のバス停で頻繁に、バス待ちしながら新聞を読んでる関根勤を見掛けました―

投稿: タカナワダイミヨヤ | 2008年7月21日 (月) 15:50

タカナワダイミヨヤさん
たいへん長文のコメントを頂きましてありがとうございます。

拝見しますと、小学校の校長先生のお名前の他は(多少時代が異なるようで)、私にも大変リアルなことばかりです。

たしかに近藤文具のオヤジさんは風変わりであったような。
高輪水産は、先の訪問では看板の跡が残っていて「タカナワ水産」と読み取れました。間口も奥行きも多少あって、奥に向かって冷蔵ケースが延びていましたっけね。
並びの自転車屋さんは、そういえばというところ、忘れていました。
トイランドは「といらんど」であったかも知れませんね。

その先の承教寺の向かいに谷山写真店という間口1間もない手焼きのお店があったのが懐かしく思い出されます。受験写真はこちらでお世話になりました。

そんなこんなの生活の息遣いを含めて、カテゴリー「路地*高輪・白金編」に書きためましたので、よろしければ。

投稿: landscape | 2008年7月21日 (月) 14:43

ホーリーっ!―…って、ケーキ屋さんでしたよね?― その向かい側の銭湯もまだあるのですか? 母親がたまに、ショートケーキやオムレットを買って来てた記憶があります― そうですか、まだ鰻屋ありましたか― … 近藤文具店も非常に懐かしい名前ですね― とても感じのイイご夫婦でした― ダンナさんはちょっと風変わりな、学者/研究者タイプみたいな方でしたけど― ですがこんなちっちゃな小学生の子供にも、いつもキチンと応対をされてました― 言葉遣いが常に、いつでも丁寧だったと記憶しています― その通りの向かい側に、「高輪水産」という魚屋さんや、自転車さんなどもありましたよね― あと「マロニエ」という化粧品屋さんも―… それに店員(というか経営者さん?)のオバサンが昼時になると、手作りのお弁当を広げて食べ始める「トイランド」という玩具屋さんも―… 何だか非常に懐かしい話ばかりですね― その魚屋さんとトイランドの間の、ちょっと奥まったトコロにお寺があると思われますが―… 「お寺」だから、まだあると思うんですけど― 多分そこの現在の住職も、アタシと同級生だと思います―
北原/山田コンビのあの校歌は、当時は歌詞はともかく、‘何だかヘンテコなメロディだなぁ’と思いつつ、いつも唄っておりました― そういった意味では、むしろ高松中学の校歌の方が、「校歌っぽいメロディ」としてスンナリ受け入れられたというか―… 今となればあのメロディの良さも、理解出来ますけれど― ただ当時から‘北原白秋と山田耕作の作詞作曲なんて、こりゃスゴいコトだ’という認識は確かにありましたけど、あのコンビは方々の学校の校歌を、結構作詞作曲してるんですよね―… それを後々、何処かで知るコトになるワケですが―
…あ、すいません― 何だかぶしつけに色々と書き込みしちゃいまして―… ご挨拶が遅れました― 初めまして― ついつい「高輪」という言葉に反応してしまいました― アタシは当時、高輪の1丁目に住んでおりました― 当時の高輪台小学校の校長先生は、宮ノ原和親(ノの文字がちょっと怪しいです…野でもないし…乃でしょうか…)という方です― 教頭先生は頻繁に何人か代わられていたので、お1人も名前を覚えてはいませんが―… 望月先生と横山先生という、とても女生徒に人気のある、体育の先生がいらっしゃいましたね―
いや、まさか久しぶりの休日に、こんな話が出来るとは思ってもみませんでした―

投稿: タカナワダイミヨヤ | 2008年7月21日 (月) 12:31

タカナワダイミヨヤさん、初めまして。
コメントありがとうございます。

「高輪台 高輪台 高輪台見よや」
思わず、校歌のフレーズを口ずさんでしまいましたが、あの校歌が結構すごいと分かったのは、ずっと後のことでした。

鰻屋さんはありました。私が高輪を訪ねた時は(清正公の大祭の際)、店頭で鰻弁当を販売してました。昔どおりに、いい香りが漂っていました。それとついでに、高輪浴場前のホーリーさんも健在です。

私も高輪を離れて数十年ですが、なんとなく、まだ糸が繋がっています。


投稿: landscape | 2008年7月20日 (日) 15:28

「菜香亭」―…懐かしい名前だ―… 小学生の頃に、出前で良く頼みました― 五目焼きソバが最高に美味しいんですよね― もう何10年も昔の話です―… ちなみに高輪台小学校のすぐ前に、まだ鰻屋さんってあるのかしら? そこの何代目かは、小中学校の同級生ですが―…

投稿: タカナワダイミヨヤ | 2008年7月20日 (日) 14:22

トントンさん どうもです。

新月さんは撤退されたようですね。
高輪在住時代には通りの向かいで営業されていて、ここの出前で蕎麦の味を覚えました。子供心にたぬきそばって旨いものだと思いましたね。

近代建築に関する関心については、その空気感の中に、そこで暮らした人々、時代を駆け抜けた人々の息遣いを感じることができる、そう感じることが引きつけられる理由でしょうか。ですから、全面改修に及んでいる場合、ちょっと違和感を覚えるのも事実ですね。

専門の方にご覧頂くには恥ずかしいのですが、blogの気軽さを言い訳にして、実証のエッセンスも意識しつつも、感性の部分で勝負(投稿)しています...(^^ゞ

ご指摘あれば、何卒よろしくお願い致します。

投稿: landscape | 2008年5月 7日 (水) 00:01

先のコメントでは挨拶せずに話をはじめてしまい申し訳ありません。初めましてよろしくお願いいたします。先日高輪台小学校を検索していて川越の風さんを拝見しました。私は建築の仕事をしながら近代建築等の保存活用にも首を突っ込んでいますので特に面白く拝見した次第です。川越には多くはありませんがまだ、亀屋さんが個人所有しているころから山崎別邸に2、3回、太陽軒さんは知り合いが改装設計しましたので食事をしたり何度か伺っています。
 玉川屋さんはおっしゃる通り鳥藤さんの隣です。鳥藤さんは子供のころ親についてよく行きました。大きなおじさんとかわいいおばさんでした。学校に入る左角が近藤さん、右が花屋さん、その隣が菜香亭で、新月さんは菜香亭の並びのビルの一階に移られていましたが辞められましたか?

投稿: トントン | 2008年5月 6日 (火) 19:18

トントンさん初めまして。
コメントありがとうございます。

私も高輪を離れ早数十年、すっかり埼玉に根を生やし、川越が第二の故郷となりましたが、学生時代までを過ごした高輪に根があるようです。

玉川屋さんは名前だけでは思い出せなかったのですが、芝信の斜め向かいで、鳥藤さんの隣のお店でしょうか。昔は間口の広いお店のイメージがありました。ちょっと高級そうで、あまり出入りはしなかったような気がしますね。

菜香亭さんって、高輪台小学校に曲がる角の近くでしたか。今回チェックして来ませんでしたが、営業しているようですね。角には生花店がありましたが、反対側の近藤文具店もありませんね。
新月さんや、天神坂の長寿庵さんも撤退されたようです。

その変化の行く末を見届けるようで、多少複雑な気持ちではあります。


投稿: landscape | 2008年5月 6日 (火) 14:05

高輪を離れて13年、実家を売却してから5年ですが、清正公さんは毎年行き勝守をいただいてきます。清正公さんの近くで育ちましたので4日5日は太鼓の音で目を覚まし、ドンツクドンドンツクツク早く来いと聞こえました。柳屋さんは知ってはいますがほとんど買ったことはありません。昔は玉川屋さんで色々な干菓子を売っていましたが好きでよく買っていました。新月の話題がありましたがそちら方面では家では菜香亭から出前を取っていました。まだ、あるのでしょうか。変りかたが激しいので今に全く知らない街になってしまうのでしょうね

投稿: トントン | 2008年5月 6日 (火) 13:15

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/152557/41099774

この記事へのトラックバック一覧です: 路地の風景*二本榎、清正公大祭の頃:

« 閑話*ちりとてちん 2 | トップページ | 閑話*ちりとてちん 3 »