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2008年6月 1日 (日)

高輪*高野山と桂坂の姿のこと

先に触れましたとおり、先月5月4日、清正公の大祭に合わせて高輪を再訪しました。高輪在住の頃、近所の友人と走り回った坂や階段、路地や辻は、その当時の空気感までが蘇ることには驚いたりもしますが、時折、忘れかけたところ、思い出せないところが現われては消えるのも、時の流れの中で仕方ないことなのかもしれません。

今回、再訪を機会に、その手触り感を再確認したかったことがあるのですが、それは、建築の風景;高輪の息遣い5で触れた桂坂に纏わることです。そこは子供の頃、隅から隅まで走り回った、途切れのない自分の世界の外縁であったところでした。(よって、恐縮ですが、すぐれてローカルな話題となりますのでご了解下さい...(¨;)

現在の桂坂の頂上付近には、南側に高野山東京別院がありますが、その起源は古く(Wikipediaによれば、1655年に幕府より芝二本榎に土地が下賜され、1673年高野山江戸在番所高野寺として完成。)、最初のイギリス公使館が置かれ、水戸藩士の襲撃事件のあった東禅寺(同1636年現在地に移転。)と境内を接していました。

現在の高野山東京別院は、地下に東京電力の施設を収容するための再開発により様相が一変していますが、その背面は敷地境界近くで構造物が立ち上がり、後背地との脈絡を拒絶するような姿になっています。

私の記憶の中では、高野山の裏山には、なだらかながけ地の麓に背の低い擁壁が続き、そこには樹木が繁茂し、季節の花が咲いていました。高野山東京別院本堂(当時)のすぐ裏手には、一筋の手造りの階段がやや斜めに下っており、東禅寺境内との狭間に続く細長い住宅地まで続いていました。階段を上がれば、本堂裏から境内を抜けて、二本榎通りに至る生活の道であったことは間違いなく、生活の場として、境内では子供たちの声が響いていました。
私の姿もその中に。やや、野球は苦手でしたが。

長くなりましたが、今回の前置きはここまでです。

高輪の息遣い5では、桂坂の途中にある旧朝吹邸や旧山下邸をモチーフに、桂坂の風景を描写することを試みましたが、桂坂が屈曲して二本榎通りに至る姿から、坂下から頂上の交差点まで直行する一筋の坂道となったことについて掘り下げる仕事が残っていました。調査というレベルではありませんが、ディテールに個人的視点からスポットを当てる試みが今回のお話です。

高野山裏のがけ地の擁壁(当時)は、先の階段を降り切った辺りで、その上を左右に辿ることができました。その獣道ならぬ子供道を左手に進むと(桂坂寄りに)、擁壁下のグラウンドレベルは徐々に低くなり(古い地形を推し測る資料を持ち合わせてないのが残念です)、それにつれて、擁壁の高さは相対的に高くなります。子供の頃、その擁壁の上を端部まで辿ったところで見上げると、そこには欄干を有する橋が架かっているような景色がありました。それは、桂坂の一部なのですが、今回スポットを当てたかった場所であります。

2008_0504dscf0043 今回確認してきた写真(←)ですが、この古びたコンクリート製の欄干の手すりを確認することが出来ます。今はその脇にも建築物がありますので、その意味を図りかねる痕跡に過ぎませんが、その手すりの位置からは、高野山裏手の谷地を見渡すことができました。前述の、高野山裏の擁壁の上を辿ってきた子供が見上げている姿も...。付言すれば、右手、坂上の駐車場(現在)のところには、季節には落ち葉が敷き詰められる、本堂に続くなだらかな坂道がありました。その脇には幼稚園が。地域の生活ににとけ込んだ一角でありました。

ここに架橋されたことにより、屈曲した桂坂が頂上の交差点まで直行することができたことは事実であることが分かりますが、併せて通りの反対側には、頂上の交差点手前近くまでコンクリートで架道された部分が分かります。(写真↓)過去には、同じような欄干と手すりを見ることができました。

2008_0504dscf0046 これは、高野山東京別院から見ると、北側のこの部分のレベルが谷地として低かったことが原因であることが分かります。そのために、桂坂の旧道は谷地の外縁に沿って、北側に屈曲していたのだろうと想像できます。

このような架橋・架道工事の結果、桂坂が現在の姿になったことは明らかですが、大正9年の地図では、まだ屈曲している姿が確認できます。関東大震災の大正12年までには、あと僅かであり、その後の震災復興が、現在の姿に繋がるきっかけであったことが窺われます。

(追補、 自分で引用しておいて忘れていました。前述の高輪の息遣い6で触れた朝吹登水子氏の著作「私の東京物語」によれば、「桂坂は1926年(大正15年)のころはまだ狭い道路で、もちろん舗装もされていなく、急斜面であった。」とあります。幼少時の印象が下地にあるとしても、桂坂の現在の姿には、やはり、大正12年の関東大震災の後、復興の機運が影響したことを強く感じます。)

以上、長々とイメージを膨らませました...(^^ゞ)

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コメント

Kさん コメントありがとうございます。
・「陸地測量図」とは、参謀本部陸軍部測量局による、五千分一東京図のことでしょうか。オリジナルは明治19年から20年に作成されたのものらしいですね。改訂については材料がありません。採録されている文献で見たことがある程度ですが、明治から大正期の詳細な地図を目にする機会がありませんでしたので、関東大震災前のものであることもあり、原本を調べてみたいと思います。
・白金郵便局は、たいそう歴史のある郵便局だったわけですが、現役時代のリアルな記憶はありません。取り壊し後の跡地に忍び込んで、遊んだ記憶があることだけです。コンクリートの基礎等が残っていて、今思えば荒涼として不思議な雰囲気でした。その前には都電の停留所があり、よく利用していました。
・高野山東京別院裏から東禅寺にかけては、高野山裏の崖地の階段を下り、よく遠征していました。高野山の境内は、放課後子供が集まる遊び場でした。紙芝居やさんの姿を見たことも。
・山手線の新駅のことは報道で見ましたが、泉岳寺前に出来たら、大規模開発による環境の変化は何をもたらすでしょう。

投稿: landscape | 2008年9月17日 (水) 21:50

懐かしさで記事をあちこちと読んでいました。
 陸測図は別の論文で参考にしたとき、当該のもコピーをとりました。
 論文か他の記事には基本データをいれてあったのですが、記憶で書くと「大正7年」改訂で
「明治43年」作成か?
文京区の真砂図書館には東京市中心部と周辺の原本だと思うのですが、ある程度そろっています。
 墨色を含めて三色ずり。
都立や国会図書館にもあるのでしょうが手軽に借りられて10円で複写できる地域図書館では真砂図書館の郷土資料コーナーが充実しています。
 肝心の港区の図書館で調べたことはないのですが。

 高野山の崖を駆け下りられるようになったという記憶が残っています。

 白金郵便局も記されています。
上行寺の移転は新聞記事になりました。
女の子とけっこう遊びました。
 引っ越す前にお別れに遊んだ記憶もあります。
 東禅寺ではクワガタが捕れる木がありました。
 山手線最後の駅といわれる「泉岳寺」駅が
できたら、また景観が変わりますね。

投稿: K | 2008年9月17日 (水) 01:29

はじめまして Kさん。
コメントありがとうございます。
高輪関係の話題につきましては(その他、雑多に書き散らかしておりますが)、ただただローカルな昔話だけなのですが、私の記憶や思いだけでもネット上に残して置けば、何か手触り感が感じられるじられるスペースになるのではないかと思い、書き始めたものです。
何か、お気づきの点でもあれば、コメント戴ければ嬉しく思います。
・「陸地測量図」を拝見しましたが、何年くらいのものでしょうか。高野山裏の崖地の位置も気になりますが、移転する前の上行寺が表示されていますね。

投稿: landscape | 2008年9月17日 (水) 01:06

 他の記事を読んでいて、私が上のコメントで「タニヤマ写真館」と記したのは間違いのようてす。
 もう一軒、間口が小さな写真店が消防署の前にあったのは確かです。
 

投稿: K | 2008年9月17日 (水) 01:05

はじめまして? もしかして、「いにしえ」に出会っているかもしれませんが。
 どこの記事にもコメントを付したいのですが…
 拙ブログにこの近辺の「陸地測量図」を
部分的に画像としてアップしています。
 一番下にスクロール。
http://yamanohon.exblog.jp/7782460/
 
 芝二本榎本町8 が旧住所の者です。
タニヤマ写真館の並びの八百屋の横の路地の奥になります。消防署のまん前ということです。

 高野山の墓所には湧き水が流れている箇所がありました。
 崖地の横の民家の一軒は表に井戸がありました。
 この近辺は川本三郎が「異空間」に迷い込んだというニュアンスで描写していますね。

 母親は亡くなっていますが台町小学校の出身。私は高輪台小学校。
 他の記事にも記憶が喚起できたら書いてみます。

投稿: K | 2008年9月16日 (火) 23:44

トントンさん、今晩は。
この話題につきましては、個人的な思い入れがほとんどで、ともかく書き残して置きたかったのですが、コメントを戴き大変嬉しく思っております。

今回の記事の最後に、いたくボリューム感のある階段の写真があります。高輪台小学校側から谷地に下るスロープがあり(角には鰻屋さんがいい香りを漂わせているところです。)、高輪台小学校脇からわずかに下ると、谷地の向こう側で架道された桂坂に上るよう設えられた階段ですが、ご指摘の桂坂に上がる階段であると思います。

おそらく、大正末期から昭和の初頭までに行われたと思われる桂坂の整備工事の際、旧来からの生活道路を補償するために、同時に用意されたものと見るべきなのでしょうね。

吊り橋のことについては、思いもよらないところでしたが、前出の階段の写真だけでも推し量れる谷地と現在の桂坂のレベル差を考えますと、現在の桂坂の架道工事前に、高輪台小学校脇を走っていた旧道側から高野山側へ、谷地を渡るアクセスとして存在したとするならば興味深いところです。

貴重な、情報をありがとうございました。

投稿: landscape | 2008年6月 8日 (日) 20:58

こんにちわ。高野山裏の斜面は奥に行くと樹木が多く、桂坂側は木が無くて小学校時代には基地作りの遊び場でした。懐かしく思い出します。
 さて、桂坂の件でご参考になるか分かりませんが、私の母は高野山幼稚園が寺の庫裏で始めた時の1回目の卒園生です。(当時は名前が違っていたのですが寿幼稚園て聞いたような記憶がありますが断言できません)
 その母によると大正末頃、のちの高輪台小の校庭前から階段を下りて昔の高野山幼稚園前、桂坂に階段を上がる道があったかと思いますが、当時は校門前の清林寺から林が続いていて高低差がもっとあって、そこに吊り橋が掛っていたと言っていました。現在では証明のしようがありませんが、全くの勘違いとも言い切れません。 
 高輪台小の校庭と前面道路や周囲の高低差等も考え合わせると現在より相当起伏が激しかったのではないでしょうか。

投稿: トントン | 2008年6月 8日 (日) 16:24

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