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2010年4月10日 (土)

高輪*アーカイブス 「黒門」の幻 その2

先の記事では各種資料の参照が重なりましたので、やや心苦しいこともあり、その年月日等の経緯については、少し裏を取ってみることにしました。図書館へ出向いた成果は以下のとおりです。(引用した朝日新聞記事は原文によりましたが、一部の漢字は環境依存文字を避けるため、簡略化しました。)

先ず、高輪御殿の成立について。
明治24年6月14日付けの東京朝日新聞によれば「高輪臺町へご新築に相成りし新御殿へ常宮周宮の両殿下既にご移轉遊ばされしが自今高輪御殿と称せらるる旨昨十三日に御沙汰あり」とあります。よって、両内親王がご移転されたのは明治24年6月13日以前ながら、間もなかったことが伺われます。

そして、東宮御所としての歴史は、いつから始まったものか。
大正2年3月25日付け東京朝日新聞によれば「東宮新御殿 本日御帰京と同時に入御の筈」「先に両内親王殿下の御慶事ありて以来荒れしとはあらねど淋しくなりまされる高輪御殿も東宮御所としての御営繕の土木を起こされて(中略)いよいよ二十五日は御避寒地より還啓仰出さるるとともにここに御動座のことと御治定あるままに内匠主殿の司人はいづれも二十四日は夜を徹して内殿御苑の浄めごとにいそしみ(後略)」とありますので、東宮御所に皇太子裕仁親王が入られたのは、大正2年3月25日のようです。

その後、高松宮が麹町区三年町より高輪西台町の御殿に遷られたのは、先日の記事では、参照資料から昭和2年8月30日を採用しましたが、「高松宮日記」によれば、30日に「移転発表」とあることから確認することができました。
それは、昭和2年8月の末尾に、「移転事項」と題する「横書きのメモ」として残されています。絶家となった有栖川宮家の祭司等を承継する御立場として、その整理をされた結果と思える内容です。トラック13台ほどの貴重品とともに、高輪西台町へ居を移されました。ただ、8月30日には宮邸ではなく地方におられたことが日記上分かりますので、具体的な作業は、別当の采配により事務的に行われたことが伺われます。

なお、大正2年3月25日付けの東京朝日新聞では「黒門」について、「帝都の三門の随一と称せらるる」と謳い、その風景を「東面せる正門を入れば多摩川砂利を敷き詰めたる車道砥のごとく西に馳せて四町に余れるが、その南側に劃して御内苑の築地を巡らし中門の御設けあり(後略)」と表現されています。
また、「御座所」については「漏れ承はるところによれば」としながら、「御正殿を中に重立る御建物は四棟にして」「御正殿の南に連なる処一棟は総二階建にして(中略)房総の山々も目前りに御眺めに入るべし」、その南側には「和洋を折衷せる御殿」、その裏に当たるところに「新たに造営せられし洋館一棟」は、やがて「殿下の学問所に充てらるべしと承る」と結んでいます。短い文章ながら、写真で表現できない事情も感じさせるところがあります。

そのディテールを追うのは奥深い作業ですが、今回は、とりあえず、ここまでということで...(^^ゞ。

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コメント

トントンさん、早速ありがとうございます。

>旧宮邸洋館(東宮御所洋館?)が光輪閣として......
 東宮御所時代の御学問所等の洋館はどうなったんだろうと思っていましたが、旧高松宮邸本館の洋館(後の光輪閣)は昭和6年竣工で、宮邸としての新築ですね。新聞記事の要約をした本文の表現が曖昧でしたので、一部手直ししました。

投稿: landscape | 2010年4月12日 (月) 00:23

特に母から聞いたことをご参考になれば書いてみます。宮邸の戦後の経緯は私も詳しいことは知りませんが、戦後、皇族も課税の対象になって西武がうまく立ち回りいくつかがプリンスホテルになったように直宮といえども戦後の混乱期には維持が難しくなって縮小されたのではと思います。ただ、高松宮邸の場合は学制変更による中学、住宅不足による都営アパート、松が丘も引揚者用に用意された住宅地と聞いていますので公共が関わって処分をしたのではないかと思います。ところで、子供の頃は旧宮邸洋館(東宮御所洋館?)が光輪閣として営業していましたが、門内がロータリーになっていてよく遊んでいましたのでチューダー様式の洋館だったのは覚えています。また、宮邸の北側に二本榎通りから入る道の北側には洋館がいくつかあり母によれば戦前に宮邸職員の官舎だったと言っていました。昭和40年代ぐらいまでは意外と戦前の様子が残っていたと思います。

投稿: トントン | 2010年4月11日 (日) 22:58

トントンさん、お久しぶりです。コメントありがとうございます。
恥ずかしながら、読みかじりで書いたところも多々ありますので、ご指摘の点あれば、ご教示下さい。

>宮邸が縮小(宮邸、中学、都営アパート、松が丘団地)するまで......
 現在の姿になった戦後の経緯については関心があります。魚籃坂下に出る裏玄関があったことが分かりますが、払い下げの経緯等、残念ながら理解していません。当時の生活、経緯など分かれば嬉しく思います。

以下については資料上の検討ができます。
>昭和天皇と年の近い秩父宮、高松宮が高輪で幼少期を過ごした時があり......
 この点は、今回、整理のため「菊と葵のものがたり」を図書館から借りてきましたが、そこに秩父宮妃、高松宮妃、三笠宮妃による鼎談があり(「思い出の高松宮様」)、秩父宮妃の回顧があります。
(要旨)明治天皇の崩御によって、「陛下」が「東宮」におなりになって「高輪御所」に移られた。幼い頃、お三方(昭和天皇、秩父宮、高松宮)は仲がよく、それまでお三方ご一緒にお暮らしになっていたわけだから、お二方が大変悲しまれた旨。
資料上のことですが、お三方があったのは何処のことか明確に分かりませんでした。養育掛の手を離れ、青山御所にあったのではないかと伺われます。

>高松宮様が最後の病気療養中に異例の天皇ご自身の病気見舞いをされ宮様からお土産で子供の頃の思い出の品として松島屋の餅菓子を渡し天皇が自ら手に持って帰られた......
 同書中、「対談『高松宮日記』あの日あの時」の中の「陛下とのお立場ご意見の相違」の項に、昭和天皇が三度見舞われた二度目のエピソードとして数行書かれています。宮様の「松島屋の団子をお出ししよう」というご意向があったことと、「陛下はそれも召し上がって」、談笑の後、陛下のほうで「普通のご兄弟のような声」をおかけの上立ち去られた。三度目が最後のお別れであった旨。あの「大福」を内々、お持ち帰りになったとしても不思議はありませんね。

投稿: landscape | 2010年4月11日 (日) 17:25

久しぶりにコメントいたします。私の実家は高松中学に隣接し宮邸が縮小(宮邸、中学、都営アパート、松が丘団地)するまでは宮邸に接していました。戦前は宮邸側二階は窓が無く戦後になってから窓を開けました。また、宮邸門前では「宮城前」と同様に礼をしてから通行したようですが、上野の博物館にある門がそれに当たるとは知りませんでした。詳しい歴史を教えていただいて大変参考になりました。その中で疑問に思ったのが大した事でなく申し訳ないのですが、昭和天皇と年の近い秩父宮、高松宮が高輪で幼少期を過ごした時があり、その時に近くの松島屋の餅菓子を食べ高松宮様が最後の病気療養中に異例の天皇ご自身の病気見舞いをされ宮様からお土産で子供の頃の思い出の品として松島屋の餅菓子を渡し天皇が自ら手に持って帰られたことがあったと思うのですが、その三宮で過ごしたのがどの時期に当たるのかそれとも私の思い違いかと思いました。他にも思い出す事が色々とありますので、ご迷惑にならない程度にまた、送ります。

投稿: トントン | 2010年4月11日 (日) 00:50

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