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2010年4月 1日 (木)

高輪*アーカイブス 「黒門」の幻

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これまで2回ほど、1967年(昭和42)の「新住居表示」に際して配布された地図を引用しながら、記事を書き起こしましたが、今回、場所を移して続編を書くことにしました。

今回のテーマを「黒門」としましたが、都立中央図書館のデジタルライブラリーの中に、 或る絵葉書を見つけたのは、随分と前のことです。その絵葉書には、「東宮御所 (旧高輪御殿)」とのキャプションが付いていました。場所は「芝高輪西台町」 ということになります。(昭和42年実施の「新住居表示」によって整理され、現在の高輪一丁目。明治5年に高輪西台町として起立され、昭和22年に芝区が赤坂区・麻布区と合併して港区が成立したとき、旧芝区の「芝」を冠する。 本稿では、当該区域の呼称として使用します。)

以下、各種資料とその隙間を埋める僅かばかりの想像力をもって、その経緯の整理を試みます。その末尾には、我が母校の港区立高松中学校が連なりますので、断片的ながらその記憶について、後半に触れたいと思います。

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東京国立博物館(上野)の正門前から、東京芸大方向に歩を進めると同館の敷地に、大名屋敷の表門が現れます。「因州鳥取藩池田屋敷表門(黒門)」と説明板がありますが、前出の絵葉書にあった東宮御所の表門と同一のものと確認できたときは、感慨深いものがありました。

それは、大名小路にあった池田家上屋敷の表門であり、1890年(明治23)に丸の内が三菱社に払い下げられた翌年、1891年(明治24)、芝高輪西台町に造営された高輪御殿に移築されます。高輪御殿の存在は、後の東宮御所から高松宮邸、現在の高輪皇族邸に至る歴史を纏っています。

芝高輪西台町は、そのほとんどを占める肥後熊本藩細川家中屋敷の敷地として明治を迎えます。その後、1891年(明治24)には高輪御殿が造営され、明治天皇の第六皇女常宮昌子内親王(1888年生)と第七皇女周宮房子内親王(1890年生)がここで養育されることになりますが、その流れの中で、御殿の表門として、丸の内にあった因州鳥取藩池田屋敷表門「黒門」が移築されたことが、その大きな枠組みであることが分かります。

なお、第六皇女昌子内親王は1908年(明治41)に竹田宮恒久王と婚姻、第七皇女房子内親王は1909年(明治42)に北白川宮成久王と婚姻し、両家とも、約1km程離れた芝高輪南町の薩摩藩下屋敷跡地で生活を営まれることになりますが、そこに大きな流れがあったあったようでもあり、何か不思議な感じでもします。 

その次の歴史は、1912年(明治45)7月30日の明治天皇の崩御に伴い、皇太子嘉仁親王が践祚したことによって、大正に改元。長男である裕仁親王が皇太子となり、翌年、1913年(大正2)3月より、その東宮御所として利用されることになります。1926年(大正15)12月25日、父・大正天皇の崩御を受け、践祚して天皇の地位の承継し、昭和と改元することになりますが、ここで、東宮御所としての使命が終わったものと想像をします。

1927年(昭和2)8月30日には、高松宮宣仁親王が麹町区三年町(当時)から芝高輪西台町に居を移すことことになりますが、皇太子裕仁親王の東宮御所の役割を終えてから、高松宮邸としての役割を果たすまでの間の経緯は分かりませんでした。
大正天皇の第三皇子である宣仁親王は、大正天皇の特旨によって有栖川宮家の祭司の継承するため、1913年(大正2 当時8歳)に宮号が与えられ、高松宮を称するようになりましたが、有栖川宮家の祭司の承継については、その経緯は本稿の目的から外れますので触れないこととします。
その後、1930年(昭和5)2月4日には徳川喜久子さんと婚姻。1987年(昭和62)2月3日に高松宮宣仁親王が薨去、その後、2004年(平成16)12月18日に喜久子妃が薨去されたことによって、宮家としての系統は途絶えましたが、宮邸は現在、高輪皇族邸として宮内庁の管理下にあります。

付言すれば、1891年(明治24)から高輪の風景であった「黒門」は、1951年(昭和26)9月に重要文化財の指定を受け、昭和28年の解体修理を経て、昭和29年3月には東京国立博物館への移築が行われました。これによって、その姿を後世まで残すこととなりました。

以上、経緯を振り返るのが大変長くなりましたが、冒頭の地図上に目を向ければ、芝高輪西台町の中心部あたりに、昭和42年当時の高松中学校がプロットされています。戦後、高松宮邸の敷地の一部を下賜されたことから、その歴史が始まりました。1949年(昭和24)6月11日から、校地として供用が開始されますが、その直前には、戦後の食料供給のため、近隣住民の畑になっていたようです。goo地図検索>古地図 から、当時の航空写真を見ることが出来ます。

高輪の台地の端部から大きく下った傾斜地を含む敷地は、肥後熊本藩細川家中屋敷であった頃は、どのような風景であったのでしょう。目白の細川家抱屋敷も同じように傾斜地・崖地を抱える地形であったことを思い出させます。

地図上の旧校舎は、傾斜地に細長く建設された木造校舎ですが、私の世代ではリアルタイムではありません。その後、私たちが使ったコンクリート校舎の一部が桜田通り沿い(高輪支所の向かい)にプロットされているのが分かります。段階的に改築された歴史がありますが、木造校舎は老朽化していた体育館とともに私たちの視線から消え、新たな体育館の出現となりました。一時だけですが、その姿を脳裏に残せたのは、財産かもしれません。その旧校舎跡の脇道にはコンクリートのスロープがあり、台地上のレベルにある正門から、グラウンドのレベルまで降りることができますが、入学式の日、その途中に桜が咲いていたのを思い出します。

二本榎通りから天神坂上の虎屋の角を曲がり、都営高輪アパート(当時)脇の小径を通って通う正門の脇には、独立した建物の図書館が建設されました。今から思えば、旧校舎の敷地の一部であったことが分かります。完成時には、大変誇らしく、高松中学校の付属図書館の様でもありました。

グラウンドの東側と北側の崖地には樹木が繁茂し、さながら山間部の学校のようでした。確か冬だったと思いますが、授業の開始前、崖地の上を回って崖地の階段からグラウンドに帰るコースで、早朝マラソンを行っていました。3周から5周位であったような気がしますが、チェック用のカードを渡され、1周毎にチェックを受けながら走った様な気がします。多くの生徒が、登校後体操着に着替え、グラウンドから正門に向かうスロープを上がり、崖地上の山岳コースをくるくる回るシーンは、冬の風物詩であったかもしれません。

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