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2010年4月24日 (土)

高輪*アーカイブス 「黒門」の幻*編集後記

その2では、客観資料による検証を試みましたが、高輪御学問所については単独の書籍があるのを見つけましたので、いずれ当たって見ることに。

また、先の投稿では「(明治天皇の)第六皇女昌子内親王は1908年(明治41)に竹田宮恒久王と婚姻、第七皇女房子内親王は1909年(明治42)に北白川宮成久王と婚姻し、両家とも、約1km程離れた芝高輪南町の薩摩藩下屋敷の跡地で生活を営まれることになりますが、何か不思議な感じでもあります。」と触れました。

芝高輪南町の薩摩藩下屋敷の跡地については、過去の投稿(建築の風景;高輪の息遣い2)において、その姿を三つの宮邸に変えるまでの経緯について、「(東京府により貧窮者の援助を行う「救育所」が一時開設された)それ以降、この広大な敷地の中で、三つの宮家が生活を営むまでの間については、これと言った材料がありませんが、築山や池に僅かに大名屋敷の名残を残す、文明開化の波間で忘れ去られた、ただ風が吹き抜ける草原であったのでしょうか。」としていましたが、今回の投稿の取り纏めの中で、維新後、三つの宮家の生活の場となる前、そこは後藤象二郎伯爵邸であったことが分かりました。詳細は掘り起こしていませんが、明治40年代に三つの宮家が出現するまでの空白が埋まったような気がします。NHKで放送中の「龍馬伝」でも、そろそろ彼の存在にも焦点が当たる番ではないかと思います。

後半では、母校高松中学校での生活にも触れましたが、とりとめもなく溢れ出る思い出を記事に纏めるのも難しいことです。
私たちの校舎は、グラウンドを挟んで現在の校舎と正反対の位置ににあり、港区役所の高輪支所を背にしていました。そのため、屋上からの景色は、校地の崖地に繁茂する樹木を一望するものでした。春から夏の新緑の時期は、溢れかえるような緑に埋まっていたように思います。乾燥して砂塵を巻き上げるグランドにはスプリンクラーが設置されており、稼働していたのは夏場だったと思いますが、長射程の水のほとばしりが、のんびりと回る風景が好きでした。

高輪支所側の裏門を出ると、桜田通りに降りるスロープと階段、スロープの途中には小さな駐車スペースがありました。桜田通りは、清正公覚林寺の手前で目黒通りが分岐したのち五反田に向かいますが、昭和40年前後に拡幅工事が行われています。その前後では、街の息遣いに変化があったことが伺われますが、残念ながらそれを知る材料がありません。明治学院のHPに、桜田通りの拡幅工事に伴う、昭和41年の曳屋工事の記録を見ることができたのみです。しかしながら、その道路沿い民家の多くはビジネスビルやマンションに替わり、その時点で断ち切られた記憶と言えるのかも知れません。

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コメント

トントンさん ありがとうございました。
また、昔の景色について教えて頂ければと思います。

投稿: landscape | 2010年5月 2日 (日) 09:21

参照ブログもご紹介いただきありがとうございました。確認してみました。東京の山の手の崖線に共通していると思いますが、湧水の豊富な土地だったんだと改めて思いました。八芳苑では少し前に見たときはかろうじて少し出ているようでした。高松中の池でも在学中は細々と湧いていましたし、高松が建て替えたり図書館を建てたりした前ごろまでは件の樹木谷では湧水で池を作り鯉を飼っていました。そして高松のグラウンドはまだ宮邸で在った戦時中は湧水で水田を作っていたようです。私の実家では昭和30年ごろまでは草蟹が普通にいたとのことでした。
 ただ、玉名川が何時ごろまで見られたのかとのことで思い出したのは、実家では本下水が入るまで、戦前簡易下水を使っていましたがその行先はどうもその川のようでした。そんなことから考えると私の家を含め周辺住民により汚され、わき水も減って意外と早い時期に川としては見られなくなったのかもしれません。
 

投稿: トントン | 2010年5月 2日 (日) 00:22

トントンさん、以下、検討しましたが、話がずれていたらすみません。

>その「小川」と大久保寺から谷を通り天神坂下、清正公前から日吉坂に至ると思われる道とが同時に成立するのか、川が暗渠か何かになった後町屋が出来たのか疑問に思っています

大久保寺は思い当たらず、少し調べましたが、立行寺の別名ということですね。大久保彦左衛門のお墓があるとか。
さて、水路の件ですが、以前からその存在だけは地図上で知っていました。現在の白金2丁目、明治学院の南西にあたるところに、玉名の池(若しくは玉縄の池)という大きいな池があった。そこから流れ出した流路は明治学院の西側から旧海軍墓地の北方を回り込み、覚林寺の南側から東側に沿って流れた水路は、樹木谷を辿る水路に続き、古川に至った。「そこには小川があり和船に乗って遊んだと言っておりました。」とのこと、単なる水路だけではなく、一部なりとも川幅を感じさせますね。あるブログ(出典は文末に)では、覚林寺前に掛かっていた橋について、幅5m強、長さ2m弱で蛍の名所であったことが紹介されておりました。明治初頭のことと思われるます。

その先がテーマと思いますが、樹木谷から弧を描いて立行寺に至る道と、水路の関係ということであるならば、goo地図の明治期の地図を参照しますと、その古道の存在とともに、水路が平行して走り、一部はその東側にやや離れて水路を取り、屈曲したりしています。江戸時代の絵図からも確認できます。水路そのものの暗渠化については分かりませんが、ただ、参照したブログによれば、玉名の池の湧水は江戸期に枯れたという話があり、その後三田用水の給水を受けたとの紹介がありましたけれども、いつ頃まで流路を保っていたかは分かりませんね。

参照ブログ;「東京の水2005Revisited」カテゴリー「川の一覧」渋谷川下流域(古川)~麻布、白金、芝の水系を辿る

投稿: landscape | 2010年4月29日 (木) 17:11

 また、丹念にたどっていただきありがとうございます。子供の頃は清正公前のあの三角には付近でも最も古いと思われた平屋町屋や町屋の仕舞屋があり拡幅も高輪側にされたので意外と後まで残っていたと思いますが、今となっては懐かしい風景になってしまいました。
 さて、樹木谷の商店街を自分で古い道の名残と言っておきながら以前から判然としていないことがいま一つあるのですが、私の母方の祖父は天神坂上付近で一生涯を過ごし明治30年前後が小学校でしたが勉強が嫌いで、学校に行くと言って遊んでいたようです。行き場所の一つが天神坂下で、そこには小川があり和船に乗って遊んだと言っておりました。
 その小川は明治学院隣の「旧海軍墓地」のあたりから天神坂下、樹木谷を通り古川橋のあたりで古川に合流していたということでしたが、その小川と大久保寺から谷を通り天神坂下、清正公前から日吉坂に至ると思われる道とが同時に成立するのか、川が暗渠か何かになった後町屋が出来たのか疑問に思っています。

投稿: トントン | 2010年4月29日 (木) 13:27

少し長くなりますが、前コメントのフォローです。

改めて、古地図や戦前戦後の航空写真をじっくり見ますと、国道1号線となる道路の敷設に纏わる経緯が見えてくるような気がします。

先ず、江戸、明治の古地図等から推論しますと、天神坂を下った道は、東西方向に清正公覚林寺の脇を直進した後、左に屈曲し、現在の目黒通りのルートを辿っていた。この点、ご指摘に関するところかと思います。同じく覚林寺脇の南北方向に走る道を見ると、東西方向に比べて小径で、覚林寺の前で多少食い違っていたが、これを直行させる新たな道路の敷設によって、既存の天神坂から東西に走る通りの他、その通りに接続する白金村樹木谷(ご紹介のあった)から伸びていた古道の接続も断ち切ることになった。結果、白金の台地の裾に沿うように弧を描く古道の一部が高輪側に取り残されたと推論しますが、そこが、国道1号線の拡幅前の姿としては「両側に店がある小さいながらも商店街だった」訳ですね。

その南北方向に直行する道路は、天神坂に接する位置の北側(高輪支所側)でも、弓形に弧を描く古道を断ち切ったが、現在でも国道1号線の向こう側には、その延長線上にある通りが顔を出し、あたかも断ち切られた古道に向かうかのように見える。その後、拡幅工事で姿を変えたわけですが、今もそのように見えます。

そして、それはいつ頃だったのだろうか。参考として、市電の開業時期を見れば(wikipedia)、目黒線(5系統;魚籃坂下 - 清正公前 - 上大崎 - 目黒駅前)は1914年(大正3)に開通、五反田線(4系統;清正公前 - 白金猿町 - 五反田駅前)は1933年(昭和8)には五反田駅前まで開通しています。よって、大正3年には魚籃坂下から清正公前、更に上大崎、目黒駅前に至る市電ルートとして道路の敷設は基本的に終了していた。目黒のルートから遅れること9年、1933年(昭和8)には、清正公前から白金猿町方面を五反田駅前まで開業とありますので、国道1号線の市電ルートとして、昭和8年までに五反田までの道路敷設が基本的に終了していたと推論できます。

その頃には、現在の清正公前の風景の原形、国道1号線から目黒通りが分岐する光景が出来上がった。結果として、覚林寺脇の、孤立した三角地帯が出現した。昔から、国道1号線の向かい側、覚林寺脇に僅かに残る向かい合わせの商店街がいかにも不思議でしたが、そこには、天神坂や樹木谷の古道の賑わいの繋がりがあったということで、何となく整理できたような気がします。

投稿: landscape | 2010年4月26日 (月) 23:25

トントンさん、興味あるお話をありがとうございます。

この地域に、国道1号線が開通した経過など関心がありました。この点については材料がなく、記事を書くには至っておりませんでしたが、コメント戴いた内容を見て、goo地図で、古地図や戦前戦後の航空写真を眺めていますと、その一部が見えてくるような気がします。

その辺は、少し纏めてから書きたいと思います。

投稿: landscape | 2010年4月26日 (月) 10:18

色々と資料に当たっていただいて後藤象二郎邸だったなど興味深く読ませていただいています。
 さて、私の方は記憶していることを書いていくだけなのですが、私も書かれている支所側のRC校舎で学んだ世代です。1号線の拡幅のことは工事風景を覚えています。書かれているように通り沿いの商店が無くなったことはもちろんなのですが、それに伴って現在天神坂下から高輪支所に向かって垂直にコンクリートよう壁によって谷がありますが、拡幅前は切り石積のよう壁で町屋が一筋ありました。現在でも途中にポツンと大久保だんごがありますが昔は天神坂下の入り口に丸屋というそばやがありよく出前をとっていました。他に子供のころいっていた床屋さんなどがあり両側に店がある小さいながらも商店街だったと思います。さらにこの商店街は天神坂下から坂上に向かうのでも、1号線を五反田方向に向かうでもなく1号線を渡る形で(今でも若干の面影はあるかと思いますが)目黒通りに向かう道につながっていたと思います。これは以前古地図見ていたらこのルートが古い道になっていましたので、その名残だったのでしょう。小さかったのでこの商店街に名前があったのかは知りません。ただ、今では知る人も呼ぶ人もいないかもしれませんが、この谷は「樹木谷」と言います。

投稿: トントン | 2010年4月25日 (日) 23:55

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