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2010年5月 6日 (木)

天気もよいので!

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5月4日に、清正公大祭で賑わう二本榎を訪ねました。
久方振りの高輪関連記事として、高輪*アーカイブス「黒門」の幻 その2 編集後記の掲載に注力しましたので、清正公大祭に合わせて寄って見ることに。品川駅前から柘榴坂を上り、二本榎通りに沿って、寄り道をしながら天神坂まで。変わる街並みを確認しながら。
天神坂下から、桜田通りの向かいに見える覚林寺までを見2010_05040071e渡す風景は、そこに、市電が開通した頃の風景を想像させることは難しいかもしれませんが、覚林寺脇の三角地帯に残る、出桁造の仕舞屋風民家に繋がる土地の記憶があると、改めて思い起こさせました。

その後、白金高輪駅から地下鉄で母校の図書館を目指す。
卒業してから○十年、当時とは比較にならないほど立派な校地に変わっていて、とても同じ大学とは思えず、図書館を利用させてもらうのもどこか申し訳ないような気もする。目指す図書館は、高層棟の地下部分に広がっており、これまた、同じ大学とは思えない。連休中ですが、学生の姿も散見され、素晴らしい環境の下で時間を過ごす贅沢な時間が過ぎていました。

とりあえず、今回の書籍探索の目的は『皇室建築:内匠寮の人と作品』。「高輪南町御用邸」に関する章。先の記事で、後藤象二郎伯爵邸であったところまではこぎ着けましたが、同書によれば、この地には、逓信大臣伯爵後藤象二郎の屋敷があり、明治25年7月4日には明治天皇が行幸され、その様子を、明治天皇紀から「御殿や庭は壮大で、丘上の小亭から品川の海が俯瞰でき、遠く房総諸山が望まれ、明治天皇は暫時賞観なされた」と引用されています。また、明治30年8月に後藤象二郎の没後、その邸地を建物と共に買収し、これを高輪南町御用邸と称されたことが確認できました。
その後、北白川宮、竹田宮、朝香宮の各邸としての分割の経緯がありますが、ここでは再確認の作業は行いません。

注目した点は、前述の「明治天皇紀」から「御殿や庭は壮大で、丘上の小亭から品川の海が俯瞰でき」と引用された「丘上の小亭」であり、現在の「港区立高輪森の公園」との脈絡です。その公園は品川駅前のホテルパシフィックの裏に、息を潜めているようでもありますが、西武鉄道と京浜急行電鉄、国による開発から取り残された一角であることは明らかです。戦後残された高輪南町御用邸の和館の後背地であることまでは確認することができ、高輪南町御用邸の脈絡を記す場所と思えます。そこには、築山の遺構らしき石積みが残されています。

さらにその上部は、「丘上」とも思える頂上部分があり、そこには洗い出し仕上げのモルタルの床だけが残る東屋(四阿)の痕跡があります。掘っ立て柱の跡とおぼしき穴も残る。その素性については、不詳でしたが、前述の「丘上の小2010_05040019e亭」とイメージが重なるのは無理の無いところだと思っています。それ以前の薩摩藩邸との脈絡、後藤象二郎邸からの変遷など論点は残されていますが、とりあえず、その重なるイメージについてだけ、記して置きたいと思います。

今回の書籍探索の次なる目的は、ブログ記事でその存在を発見した『オレインブルク日本遠征記』を探ること。高輪は寺町ながら、大名屋敷が混在していたことが分かりますが、現在の高輪3丁目辺り、二本榎通りの西側の斜面から白金台2丁目に掛けて、川越藩下屋敷が広がっていました。同書の口絵には、川越藩下屋敷内の勤番長屋のスケッチが納められています。二本榎通りに面して表門を構え、二本榎の交差点から明治学院に下る道は、松平大和守から大和横丁といわれる小径であったようです。現在は、その敷地の丁度中頃を桜田通りが横切っています。私は川越の住人でもありますので、何かしら因縁を感じなくもありません。江戸、明治、大正の変遷を地図上で概観すると、時代の変遷と共に町割りが行われ、道が延びていきます。そこに桜田通りが整備され、その後の拡幅を経て現在の姿となる訳ですが、材料が見つかれば、いずれ触れたいところです。

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