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2011年11月20日 (日)

雑感*当世流行事情

今は見慣れた風景だが、雑踏の中、携帯やスマホを凝視しながら街角を歩いていく姿が目立つようになった。さすがに、ラッシュ時のターミナル駅で、その様子で階段を上がってきた女性の姿には驚かされたが。

手にした携帯端末に落とす視線が、押し並べて、あたかも端末を拝みながら歩いているように見えるのも不思議な光景だが、すれ違う人波の中でも、するりと避けて歩いて行くのは曲芸のようでもある。人混みの中、避ける気配が感じられないか、避け方が未だぎこちなく、どこか緊張感を漂わせる姿には、こちらが緊張感を覚える瞬間もある。街角のこうした無言の気配りは、当世必須の感性なのだろうと思う。

その風景は、人が往来する街角の息遣いから、どこか意図して途絶させた、その閉じた世界観を主張しているかのごとく見える。
それは、歩きながらゲームをしているわけでもあるまいが、ヴァーチャル環境を手に、リアル環境の街角を、ひとり彷徨しているようにも映る。その一見シームレスな環境の下に、何かが麻痺しているようにも見える。

携帯端末で、常にネットワークに片足を浸している日常は、私には必要以上の拘束と映る。ネットに繋がることは、環境に応じて選択的に指向することが、私には、住み心地がよさそうである。

また、そこには、人混みの中で、街角との関わりを途絶させたことによって生ずる物理的なリスクがある。見方によっては、携帯やスマホを凝視しながら歩き回ることは、そのリスクを、周囲に転嫁していることでもある。

さらに、同じように携帯やスマホを凝視しながら、「自転車」で走行するような行為においては、そこには何ら必然性がない上に、そのリスクが容易に顕在化することは論を待たない。警察による摘発がニュースにもなっているが、それは、眼や耳の不自由な方、足腰の不自由な方、高齢の方などのいわば「交通弱者」に対して、そのリスクがより顕在化しやすい。

そこに思いを致すべきではなかろうか。

そこで、求められることは何か。
それは、僅かばかりの想像力ではないだろうか。

日常生活の中で、交通弱者が、他者の招いたリスクにひるむ瞬間があれば、それは当たり前のことだろうか、何がそうさせるのか。社会生活において協調し、妥当な結果を得るためには、気を配るべきは、誰の責任だろうか。自分の家族が、そのリスクに街中を歩くことをひるんだとき、交通環境の危険性を指摘しても、本人の責任だとは思えないだろう。そこに不条理を感じないだろうか。

自転車の話しは過去にも触れたことがあるので、付言したい。
「無灯火運転」、これは薄暮時から夜間に掛けてランプを点灯させることは、自分の視野を確保するためであるとの誤解があること、自分で回避行動が取れればさえよいとの誤解に繋がる。
実際は、事故を回避するために、対向する歩行者や車に対して、自らの存在を視認させ、注意喚起をするためにランプを点灯する必要性があることの理解が不足している。
「逆送運転」、右折等のために一時反対車線に移るのではなく、右側走行を前提として走行することは、根拠が乏しい自己主張にすぎない。これに類する事象もあるようだが、結局の処、いずれも、想像し得ない挙動から発生するリスクを、他者に転嫁しているだけと映る。それは、法令遵守の以前の問題であると言える。

そんなに難しい話しではない。いろいろな局面において、周囲に許容される限度を試すような自己主張よりも、幼児から高齢の方、障害を持つ方とともに暮らす社会において、その行為は誰のために気を配り、責任を持つべきことなのかということを前提として考えれば、やさしい社会になる、それだけの話しではないだろうか。

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