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2012年4月13日 (金)

閑話*高輪警察署前のこと

学生時代までを過ごした高輪のこと。
これまで、幾度も触れましたが、少し違う角度で。

目黒駅前から大井競馬場へ向かう都バスは、明治学院前の停留所を後にすれば、桜田通りを横切り、緩やかな傾斜の坂道を辿り、高輪警察署前で二本榎通りと交差する交差点を右折する。そのまま交差点を直進すれば、東側の傾斜地を下り、桂坂として山手線の内側を併走する第一京浜に至る。右折の後、二本榎通りの尾根道を南下した都バスは、品川駅を目指して柘榴坂を下って行く。

目黒駅前から大井競馬場に向かうこの路線は、いったい何時頃からのものだろうか。ネット上で資料を参照すると、昭和27年5月より既存路線の延長として、品川駅から目黒駅までを延伸されたことが分かる。大井競馬場という名前に、何となく違和感を覚えていたのは事実だが、二本榎を縦断する品川駅と目黒駅間のアクセスとして、親しまれていた。

この交差点を舞台に、思い出すことがある。

そのひとつは、小さな頃、高輪警察署を目指して都バスでこの坂を登るとき、運転手さんの後ろに席に占めることができたときには、やや緊張感を覚えた。この交差点を右折する際、目の当たりにすることができる光景を見逃さないためである。

その頃の都バスは、ランプによるウインカーだけではなく、メカニカル式の方向指示器が実装されていた。高輪警察署前の交差点にさしかかると、バスの車体の脇に仕舞われていた矢印が、ひょいと持ち上がり、右側を指し示すのが見えた。それは、運転手さんの意志を指し示すかのように、その座席脇で静かに持ち上がった。他の大型車両や、もともと乗用車にもあったものなのか、そのメカニックとしての来歴については知識を持ち合わせていないが、今思えば、どこかのんびりとした光景であった。

交差点での右折が近づき、矢印が律儀に持ち上がるのを目の当たりにすると、子供心に、妙な納得感があった。その後、メカニカル式の方向指示器は失われて行き、必ず遭遇する光景ではなくなった。子供にとっては、はずれが混じるようになると、運転手さんの後ろの席に座ることへの関心は、いつのまにか薄れていった。

高輪警察署前の交差点には、高輪消防署があった。現在も二本榎出張所として現存しているものの、まだ本署であったころである。消防署の記憶は、洗ったホースが干してあった風景だろうか。望楼の手摺りから下げてあったものだと思うが、ホースを引っ張り上げる場面には遭遇したことがない。丸めて階段を持ち上げていたとすれば、それはそれで訓練になっていたかもしれない。

高輪警察署そのものも、交差点角に面した玄関に、階段を数段上がる権威主義的な旧庁舎の姿が私の原風景である。警視庁のHP上に、高輪警察署のページがあり、その写真も見ることができる。昭和5年建築で、昭和52年に現庁舎へ建て替えとある。

そのころ、警察署の道場では、地元の少年に武道を教えていた。私もそのひとりに加わることになった。警察署の玄関を入るとき、大きな声で挨拶をした。今なら迷惑そうだが、そう指導されていたと思う。玄関付近の署員も返答してくれたような気がする。正面で挨拶をし、左奥のすり減った階段を二階に上がると、階段のすぐ脇が道場だった。階段の足許には、重そうな機動隊の盾が並んでいた。学生運動という言葉が、現実味を帯びていた時代である。
練習後、まっすぐ家に帰らず、署内の自販機でペプシコーラを飲んだこともあった。ペプシしかなかったと思う。小さなガラス窓を開け、瓶を引っ張り出す仕掛けのあれである。瓶を引っ張り出して、自販機の栓抜きで王冠を開ける行為だけで満足感が漂ったが、正直、飲み干すのは大義だった。家はそう遠くもなく、小学生としてはいささか生意気であったろうか。

交差点の反対側の角には、いつのころだったろうか、明隣堂という書店が店舗を構えた。当ブログにコメントを頂いた方の記憶によれば、生け垣がある民家があったところである。そのような気もするのだが、いまひとつ自信がない。明隣堂書店の風景については、以前描写している。小学校低学年のころだろうか、工事が始まったころは興味津々であった。街中にそこそこの規模の書店が現れるのは、新しい文化の風が吹いたような気がした。たぶんそうであったと思う。歩道に面してショーウインドウがあり、雑誌等がディスプレイできるようになっていた。店舗内は吹き抜けで、コンパクトな螺旋階段を設えた二階は回廊のような形で、ぐるりと書架が並んでいた。明隣堂書店は姿を消したが、いまでも、その書架から手に取って、清水の舞台から飛び降りたつもりで買った古典の参考図書が1冊だけ手元に残る。

残る交差点の一角は、いまは何もない開放空間になっている。
マンション敷地となった現在の様子については、何も描写することはできない。私がいたころは高輪町栄会であったが、今、メリーロード高輪として作成された「高輪散歩」といウォーキングマップが手元にある。その末尾に掲載された一枚の写真がある。

そこには「1950 takanawa choeikai」とある。生まれる前ではあるが、私の記憶の風景と大きな違いはない。その写真の左側が、残された高輪警察署前の最後の交差点の一角である。正確には、交差点角の店舗は切れているようだが、そこにあった街の息遣いを伝えている。角の店舗は、何度か代わっていると思うが、ある日、小さなケーキ屋さんになった。写真に残された風景は、オオヂ靴店さんのとなりは八百松さん、その先には後の動物病院、蕎麦屋の新月さんが判別できる。また、手前にはローマの円柱を模したような意匠の街路灯が見える。全てが、生活の息遣いの中にあった。

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コメント

>明学卒業生・Y岸部さんはじめまして。
>
>コメント有り難うございました。
>ずいぶん昔の地域の姿に触れていますが、歴史の手触り感があれば幸いです。
>ここのところ、投稿に集中できないまま、時ばかり経ってしまいやや焦り気味です。
>同様のカテゴリーでずいぶんと書き遺しましたが、共通の記憶を持った方々にコメントを頂き、感謝しております。
>
>

投稿: landscape | 2020年2月12日 (水) 11:38

先のコメントですが、誤字がありました。「操業して故郷に戻り・・・」は「卒業して」です。
追加です。鬼平犯科帳にはよく明学の周辺が出てきますね。読みながら昔のあのあたりを想像します。きっととっても良いところだったのでしょう。

投稿: 明学卒業生・Y岸部 | 2020年2月11日 (火) 00:01

1967年明学の二部に入学し、時折明隣堂に行ってました。東京の書店を探っているうちにあなたのブログに行きつき、懐かしく読んでいました。 二部の授業が終わった後、友人と二人でよく品川駅まで歩きました。いろいろと青春を語りながら。暖かい時期には暗い夜の道すがら、虫がたくさん鳴いていました。品川駅前から目黒駅行の都営バスにはよく乗りました。跳ね上げ式の機械的なウインカーの記憶はありませんが、高輪警察署と消防署のことは記憶にあります。操業して故郷に戻り、数年たってから懐かしさで周囲を散策したのですが、すっかり変わり、明隣堂も警察もありませんでした。一時、慶応大学そばの三田に住んでいたこともあり、毎日毎日、大学まで歩いて通いました。坂のとっても多い地区でした。伊皿子坂とかちょっと離れて聖坂というのがありました。戻りますが、柘榴坂と言う名前は、確か藤沢周平作品に有ったと思うのですが、その本を読んで、そのいわれを分かったのは数年前のことです。大学時代には全く知りませんでした。いろいろと思い出すことができ、今の自分があるのが明学だと改めて感じています。ありがとうございました。

投稿: 明学卒業生・Y岸部 | 2020年2月10日 (月) 23:51

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