路地*高輪、白金編

2019年4月16日 (火)

高輪の春に

今上天皇のお代替わりが近い。
天皇、皇后両陛下は上皇、上皇后両陛下として、現在の東宮御所を改修の後、仙洞御所として住まいを移される。その準備のために、港区高輪にある高輪皇族邸(旧高松宮邸)に一時住まいを移されることが報道されている。
かつて高輪の台地を駆け巡った少年の記憶は、すでにこの場に書き遺した。皇族に縁のある土地柄だったが、少年の頃の私と、当時の街の息遣いが両陛下をお迎えする。そんな春の夢をみた。

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2017年3月29日 (水)

アーカイブス 高輪*建築の幻影 2

■ギャラリー「風の休日」に掲載記事(2008.5.18)2008_0508dscf0027
前回の、高輪*建築の幻影は個人的思い入れですので、ー度だけと考えていましたが、別角度のショットをもう一回だけ、その2です。

詳細は、前回の投稿に譲りますが、写真正面が、品川駅前のホテルパシィフィック東京になります。
この斜面に水路(らしき景色)は続きますが、その先には高輪南町御用邸がありました。
傾斜地の下にある石組み(建築の風景*高輪の幻影 前・後編)まで続いていた水路は、傾斜地の途中の湧水を、その直下の池に導いたように思えます。
その敷地を包含していた薩摩藩下屋敷の建築物の配置は材料がありませんが、その配置が、残された地形の造園に何かしらの影響を及ぼしていることは確かでしょう。
この造園の痕跡がどこまで遡れるものなのかが、関心の的です。
その鍵は、やはり木子文庫にあるのですが、個人的に、すっきりできたら報告できると思います。

課題を残しているのですが、それもまた楽し...(^^ゞ

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アーカイブス 高輪*建築の幻影

■ギャラリー「風の休日」に掲載記事(2008.5.9)

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去る5月4日に、清正公大祭に合わせて高輪を再訪。
幼少期には、子供の日に絡むお祭りなので、年中行事として楽しみでした。
その後、川越の住人となってからも、近隣の散歩をすることが目的で、このような機会を見つけて時折訪れます。

ここは品川駅前の一角にある「高輪森の公園」というところ。
薩摩藩下屋敷から高輪南町御用邸までの歴史をまとっているところです。
何度か訪れることになりましたが、敷地内の樹木が整理されたとともに、少し荒れてしまったようで、その全体を包み込む空気感が失われたようです。

写真はその一部ですが、傾斜地にある公園の頂上付近から、枯山水のような遺構が続き、その麓にあたる公園の正面部分には、思わず歩みを止めるような大きな石組みが残ります。
それは、斜面途中からの湧水を、水路に沿って導いたように見えます。(写真の右から左へ。)

ネットフェンスの向こう側には、切り取られた敷地が続いていたわけですが、水路を渡る飛び石は、その奥まで続いていた様にも見えます。
また、頂上部分には東屋の痕跡を見ることができます。それは、小石の混ざった洗い出しのような床で、掘っ立て柱の跡が残る...。

散策の途中、東屋から飛び石を渡り、ネットフェンスの向こう側に続いていた敷地の奥に向って散策する、当時の主の後姿が見えるようです。まるで幻影のように。

当blogの本店である「川越の風」で、「建築の風景*高輪の息遣い2」を纏める際に、歴史の痕跡を探し歩いた折、出会った場所です。その後、「建築の風景*高輪の幻影(前・後編)」で一歩踏み込んで触れてみました。

四方を、それぞれの地権者に囲まれたこの小高い丘を中心とした公園は、明治以降の歴史のうねりの中で取り残されたポケットのようです。
詳細な考証があってしかるべきかと思いますが、今のところ、ほんの入口程度で...(¨;)。

少し落ち着いたら、ディテールをもう少し掘り下げる...つもりです。
それにしても、月1ペースか...(^^ゞ

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2017年1月13日 (金)

あの頃のこと その3

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あの頃のこと あの頃のこと その2 続き

食の記憶は、何より忘れ難い。

当時から店舗を構えていた洋菓子店ホーリーさんのサバランである。以前、立ち寄って買い求めた時は味が変わってしまったかと思ったが、今回は懐かしい味がした。高輪台小学校の入口付近に出来たお店で、登校時には甘いにおいに鼻腔がくすぐられた。

蕎麦屋さんとしての存在感は新月さん、足を伸ばせば天神坂は長壽庵さんだったと思う。以前にも触れたが、たぬきそばの天かすの旨さを覚えたのが新月さんである。蕎麦屋のカレー、カツ丼、たぬきそば、きつねそば、おかめそば、夏場には蕎麦屋の冷やし中華。その中でも、ふたが閉まらないカツ丼のボリュームは、小学生にはたまらなく贅沢で魅力的なものだった。そのときの経験から、カレー、カツ丼のトッピングはグリンピースだろうと確信めいたものがある。

出前を頼むと、麺類には七味と長ネギの薬味が小皿に乗り、新月と印刷された細長い紙にくるまれていた。カツ丼には沢庵と新香であったと思う。

中華は宝来さん。何でも美味しかった記憶。チャーシュー麺は魅力的だったが、何にすると聞かれれば、タンメンだった。半割のゆで玉子が好きだった。

それ以前にさかのぼる食の記憶は、温かいコロッケである。
屋号は覚えていないが、すでに転出していた上行寺の正門脇にあった肉屋さんがお決まりであった。小学校に上がる前、初めての小遣いは10円玉を握りしめて、コロッケを買いに走った。
肉屋の店頭で、注文すると、割烹着を着たおかみさんが精肉の冷蔵庫の大きな扉を開き、あらかじめ整形したコロッケのねたを取り出す。小麦粉をはたき、玉子をくぐらせ、パン粉をつける一連の所作を目の前で見ることが出来る。その間、大きなフライ鍋のコンロに火をつける。フライヤーの時代ではない。おそらく、ラード100%だったろう。真っ白に固まっていていることがあった。溶けるのを待つ時間も、期待が膨らんだ。時によっては、テーブルの下からラードを追加することも。

今でも忘れられないのは、コロッケを揚げたおかみさんが、ソース掛ける?と尋ねてくれたこと。実はおやつの買い食いではなく、本人は、一個のコロッケを持って家に帰るつもりだったのだが。

この店では、経木に揚げ物を包んでいた。お店によっては今でも現役かもしれない。その上から緑色の紙でくるんで渡してくれる。さらに、記憶にあるのは。冷えないように新聞紙でくるんでくれたように思う。店の入口からは、カレンダーの裏(たぶん)にマジックで書いた手書きの値段表が見えた。家の総菜に、コロッケ以外のメンチカツ、時にはトンカツを頼むときにはいささか緊張したとともに、持ち帰るときには充実感が漂った。

朝、肉屋さんの前の路上に練炭火鉢に火が入り、ジャガイモを茹でるお釜を載せてあるのを見ることがあった。それを、横目で見ながら登校した。

冬の季節感を感じたのは、鳥屋さんかもしれない。屋号は加賀屋さんだったと思うが、クリスマスが近づくと、店頭で観覧車のようなのロースターが回っていたことを思い出す。今でも、商店街で見かけることがあるが、あれである。温かい総菜の中でも、ひときは存在感を放っていた。商店街をとおって下校するのも、生活の息づかいがあった。

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2017年1月12日 (木)

あの頃のこと その2

あの頃のこと 続き

品川駅前には明治維新後の後藤象二郎邸、それに続く旧皇族の邸宅の歴史があり、以前の記事ではその歴史を出来るだけ立体的に構成してみた。詳細は以前の記事に譲りたい。ひとことだけ触れれば、品川駅前から石榴坂を上りその、高輪の台地の上を走る通りまで現在プリンス系のホテルが軒をならべる一体は、旧皇族の広大な邸宅地であった。

台地の上を北上する二本榎通り沿いは寺町であった。
また、そこには、日常生活を支える商店が軒を並べていた。生鮮食料品はもちろん、米屋、豆腐屋、酒屋、乾物屋、雑貨屋、和菓子、和装、カバン屋、床屋、美容室、医院、薪炭店、ガソリンスタンド、時計店、電気店、蕎麦屋、中華料理店、鳥や、信用金庫、郵便局、高輪台小学校の入口付近の文具店、小学校前の駄菓子屋、鰻屋、喫茶店、今となっては驚くべきことに商店街に面したて小さな映画館があった。円筒形のチケット売り場が正面にあった。いちどだけ、父に連れられ、中に入ったことがある。提灯が下がった2階の桟敷席だった。刀を振り回す時代劇だったことだけは覚えている。

床屋は明治学院に向かう道路脇の平賀理容院さんに通った。南側の窓は歩道に接して開放感があった。大きな大人用の椅子に、子供用の補助椅子を掛けていた頃からのおつきあいだった。円筒形の湯沸かしと洗面が壁際にあって、おじさんに促されて、洗髪に椅子を移る、昔はどこも皆同じだったろう。それと子供として大きな利害関係は、待ち時間に週刊漫画のバックナンバーを読破できることだった。

そうそう、おもちゃ屋も2軒あった。トイランドとハトや、小学校前の駄菓子屋も入れれば3軒。そこでは、ずいぶんと無駄遣いをしたと思うが、シート状の石けんにイラストが印刷されている「紙石けん」という商品が流行っていて、これは小学校での手洗いという名目で、どちらかと言えば胸を張って買ったと思う。
                           
高輪警察署と高輪消防署前の交差点の角には、二階建ての大きな書店があった。その反対側の角には、いつの頃からかショーケースだけの、小さなケーキ屋さんができた。それ以前は和菓子を商っていたように思うがそこの記憶が定かでない。

書店の建築が進んでいる頃の高揚感が思い出される。毎日、工事現場の脇を通って通学をしていた。道路際に出窓が目立っていたが、気がつけば本のショーウインドだった。組み立て済みの大きな螺旋階段が工事現場に運び込まれていたが、出来上がってみれば、入口脇に設置された2階が回廊式の吹き抜けだった。いずれにせよ、インターネットのない時代に、情報があふれる予感に、高揚感に包まれていた。

二本榎商店街の商家の記憶のひとつとして、商店街の中程、芝信用金庫の並びに、カバン屋さんがあった。小上がりがあって、カバンの修理もされていたと思う。その頃流行のジーパンに合わせる幅広の革ベルトを探しに行った。気に入ったかどうかは覚えていないが、商品を定めて、購入を申し出た。まだ、中学生でしかなかった私に、「ありがとう存じました」と声を掛けて頂いた。その商いの姿勢に触れたようで、今でも記憶に残る。

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2016年12月23日 (金)

あの頃のこと

このブログ開設当初から、幼少期から学齢期まで過ごした土地である高輪のことについて書き残してきた。過去の投稿と重複するが、再びまた、いくつか触れてみたいと思う。いろんなことを書いてきたので、整理することも大変なことなのだが、この年末年始において断片的に触れることをお許し願いたい。 (これまでの、本テーマの記事は、カテゴリー「路地*高輪、白金」をご覧下さい。)

まずは、品川駅前から。つい最近、京浜急行で横浜へ往復する機会があったので、平日だったこともあり、その息遣いを感じられるかもしれないと師走の二本榎を目指した。

品川駅は新たな役割が加わり、加えてリニア新幹線の工事も始まった。見た目、高輪口は昔のディテールを残しているが、港南口は新しい街となっている。また、隣接する田町駅との間にある泉岳寺前においても、新駅の開設に伴う開発行為が予定されている。

過去の記憶は、当時の時計が脳裏で時を刻むかのように、その風景と息遣いとして生きている。
高輪口の駅前は、現在、JR駅舎と隣接する京急のイメージが昔のイメージを残しているが、その向かい側は様変わりしている。京品急行の旧本社と、京品ホテルがランドマークではなかったか。むろん、そこが北品川から延伸された路面電車の始発駅だったころは知らない。旧京急本社ビルの脇を走る石榴坂を、西に向かって上れば突き当たりには森村学園があり、道なりに右折すれば二本榎の商店街に至った。実際は、プリンスホテルの敷地の脇を蛇行する坂道があり、そこを通り抜けるのがアクセスだった。

駅前に立つと、空は低かった。表現がどうにかならないかと思うが、そんな感じかもしれない。当然、都電の最盛期を体験しているし、トロリーカーも現役の頃を見ている。その架線が主要な道路を覆っている、そんな時代があった。

旧国鉄駅舎の一階、今はホームへ向かう階段の上がり口になっているところが、有人の改札口のあったところで、その脇に出札窓口が並んでいた。現在はコンビニやらコインロッカーが場所を占めているあたりである。

窓口は路線別に並んでいたのだと思うが、いくつあったろうか。子供の頃、窓口に張り付くと、切符を扱わせては達人と思わせるような係員に、緊張しながら行き先を告げた。係員は、行き先ごとにセットしてある硬券を素早くホルダーから引き抜き、日付を打刻するダッチングマシンをくぐらせる。原始的な機械だと思うが、それは山手線一駅間の切符でも行われる大層な儀式に思えた。付言すれば、改札にも達人がいた頃の話である。

その後しばらくして、改札口寄りの出札口に何台か、自動券売機が設置されたが、現在の多機能な券売機とは比べようがない。特定の区間、運賃が単一の切符の発行ではなかったろうか。ともかく、硬券と比べ心許ない、ぺらぺらの切符というイメージだった。

出札窓口のいちばん北側には長距離用の出札窓口があった。帰省時期などには、申し込みのため、早朝から列を作ったような気もするが、いつの頃からか予約になって、手配の結果だけ知るようになった。その奥のはずれには、鉄道小荷物、チッキの受付があり、親と一緒に帰省する際の荷物などを持ち込んだ。宅急便はまだ、影もかたちもなかった頃のことである。

さらに、駅の北側には隣接して、狭小な飲食店が軒を並べる一角があった。昭和42年実施の住居表示新旧対照案内図で確認出来るが、数十軒というレベルである。かつて、戦後国鉄のターミナル駅前にあった闇市の流れをくむ一角だったのだろうか。珍しく家族三人で外出した帰り、品川駅に帰着し、その一角にあった中華料理屋の2階で、私たちだけで夕食をとったことを思い出す。   
追って、その二へ。                                                               

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2014年7月 9日 (水)

最後の山手線停車場のこと

文字通り、山手線最後の停車場となる新駅について。

新たに、人が行き交う大規模なエリアが出来る話で、夢を膨らませ視点は数多ある。その他にも、オリンピックの開催まで、いろいろなことが起きることだろう。

東京の姿もいつの間にか変わってゆくのか。

とりあえず、今回はその新駅の名前の選定について。
その選定方法も含め、これからの話しらしい。

それならば、個人的な思い入れを語っても怒られそうもないので、ひと言だけ。もと地域住人であったことだけが、その感性の根拠なのだが、山手線最後の停車場であることに思いを寄せて。

「高輪泉岳寺」では如何だろう。

他の駅とは、語感が異なるが、ここに山手線最後の停車場として、江戸から引き継いできた東京という都市の個性の一部を、その名に体現させる試みがあってよいのではないか。例えて言うなら、鉄道唱歌の痕跡を残すことに意味はないだろうか。最近散見される、複数地名を連続させるネーミングは、最後の選択であって欲しい。

何年かの後、山手線の車上の人となり、「次は高輪泉岳寺です」と車掌さんのアナウンスを聞くことを想像する。つり革につかまり、レールの響きを感じながら、その歴史と風景がイメージされないだろうか。新幹線停車駅の隣りに、歴史を語る駅名が生まれ、地域のアイデンティティーと共存する最先端のエリアが生まれることを想像する。そういう都市の顔があってもよいのでは、そう思うのだが。

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2014年6月 2日 (月)

閑話*坂の記憶

5月の連休に、思いつくまま都内の街歩きに出掛けた。
いつかのように、少年時代を過ごした高輪にも立ち寄る。ここで過ごした時代の記憶は、かすんだり、すり減ったりしない。時々、引き出しから出してみると、そう思う。

高輪の台地には、峰を南北に走る二本榎通りをピークとして、東と西両側に下る、名前のついている坂道や、細い曲がりくねった生活の路地が延びている。時が経ち、昔の面影は大きく失われた。その間、居住者が変わり、生活の息遣いも変わった。変わらないものを求めて歩く様な気もする。それは、記憶の中にあるのだが。

二本榎の商店街、今は姿を変えたが、その中途に豆腐屋さんがあったことを思い出す。ナショナルショップのとなり。大きな窓越しに、水を張った大きな桶が見えた。ステンレス製だったろうか、出来上がった豆腐が泳がせてあった。

あるとき、通りの向かい側からふと見上げると、そこには、豆腐店の看板が残されていた。店舗スペースは他の業態になっているが、申し訳なさそうに銅ぶきの看板に、豆腐店の名前が貼り付けたように浮き上がっている。すっかりさびて変色しているが、今回も変わらずそこに残っていた。同じような、看板の痕跡が、輪業、自転車やさん、鮮魚店の名前があったが、今回は見落としてきた。

坂の話しに戻れば、二本榎の商店街を歩けば、東西に坂は下る。坂の上から見る景色は、どこか知らない町のようにも見える。
今回、その坂を下った国道沿いを歩きながら、二本榎通りに至る、緩い勾配の坂道を見上げて見ると、ふと気がついた。

何故か、そこにあった息遣いが感じられた。その緩い勾配が、記憶を呼び覚ますのだろうか。何かが残っているか、期待をしていないところだったが、その坂道の幅と勾配の記憶は、その道を辿った息遣いとともに仕舞われていたようだ。

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2012年8月30日 (木)

雑感*夏の終わりに

まだまだ太平洋高気圧は健在で、9月も残暑が厳しいことは間違いないけれど、立秋もとうに過ぎ、そろそろ学校の夏休みも終わろうかという頃になれば、季節感としては夏の終わりを感じる。

子供の頃、夏の終わりには、毎年同じように季節感を感じさせることがあった。夏休みは、あてがわれた計画をこなしながら、自由を満喫し、夏休みというイベントを楽しむことに夢中だった。東北への帰省が一大イベントであったが、学校のプールもあり、朝のラジオ体操もあった、また、何をしに行ったのかはよく覚えていないが、登校日という設定もあったと思う。そんなこんなも、半ばを過ぎれば、夏休みとしての帳尻を合わせることに感心が向く。その頃、季節感を感じさせたのは、セミの声である。

子供の頃、昔は寺町であった高輪に住んでいた。そのころは、昔の面影が残っていた。古い石垣が残り、住宅街にも比較的樹木が多かったように思う。高野山の東京別院の裏には、木々の茂る裏道が、崖地を下っていた。日陰に入れば、何となく湿気を感じる路地があった。

これまで、うるさいほど響いていたアブラゼミの声に、緑色の斑紋が特徴的なミンミンゼミの声が混ざり、8月も終わり近づくと、いつの間にかツクツクボウシの声に代わっている。毎年、間違いなく、これを繰り返した。主役のセミが交代する頃には、夏休みも終わり、気分は2学期を迎えるリアルなモードに切り替わった。

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2012年5月 6日 (日)

清正公大祭のころ

2012_0505_13e_2                    (高野山東京別院の裏手から東禅寺へ)

5月5日に、覚林寺の清正公大祭に賑わう高輪を訪ねる。
学生時代までを過ごした高輪とは縁が切れることはないのだが、ゴールデンウィークの最後に、ふと足が向いた。きっかけが必要なのだが、清正公大祭があり、それで充分である。何年かに一度、その変化を感じつつ、自分の歴史を辿りながら路地を歩く。

自分だけで、走り回った頃の記憶を手繰ることが出来れば、それでいいのだが、思わず同級生とも顔を合わせることもある。
今回は、地元の商店で、昔話しを伺うこともできた。いろいろと伺いたいところだが、営業妨害になりそうなので差し控える。

2012_0505_15e先の報道で、旧衆議院高輪議員宿舎を都が購入することが報じられ、白金から高輪に至る計画道路の動向が気に掛かる。未着手の区間だが、動き出すのだろうか。
完成すれば、地域を南北に分割し、その息遣いに、大きな変化をもたらすだろう。むろん、ここ数年のこととは思えないが、近辺を、もう一度歩いておきたかった。

第一京浜から東禅寺参道を経て、高野山東京別院の裏手を辿る。昔の記憶を遮るように、擁壁がそびえる。桂坂を高輪台小学校裏で横断し、大改修を行った高輪台小学校脇の旧道を辿る。正門脇の、民家が忽然と消え失せ、緑地になっている。広い敷地の民家だった。。

2012_0505_26eその先の高輪浴場は消えた。1年ほど前のことらしい。
その向かいのケーキ屋さんホーリーは健在だ。帰り際に店内をのぞくと、サバランがあと2個。これを迷わず購入、何十年ぶりかの味である。
川越までの土産とは言えなかったが、保冷剤をお願いし、大切に持ち帰った。帰宅後、早速、賞味したが、子供の頃のようには、はっきりとお酒の香りは感じなかった。スプーンですくって食べると、のどの奥にお酒のテイストがはっきりと残ったように思うが、何十年かの時の経過が、単純に、それだけでは物足りない飲兵衛にしたということだろう。

高輪浴場も消えたが、その前には薬局がありホーリーの隣には、鶏肉の加賀屋さん、二本榎通りの角には近藤文具店も記憶の中だけになった。正確に言えば、加賀屋さんのことは、ホーリーの奥さんに指摘されたのだが。

二本榎通りを辿り、天神坂を下ると、覚林寺清正公様へのお参りをするために、桜田通りを渡る。境内は整理され、昔より夜店の数が少ないだろうか、子供が目を惹く夜店も見当たらない。その昔、境内の夜店でこだわったのは「吹き矢」だった。いろいろな模様のプラスチックのパイプが性能を競っていた。パイプに込める矢は、紙を円錐状に丸めたもの。パイプを買うと、いくつか付けてくれたと思う。店頭でデモを見せられて買っているので、早く持って帰りたかった。そんな夜店をひやかすのは、やはり夜店のランプが昼間と違う世界を演出する、日暮れからがお気に入りであった。

最後に触れておきたいのは、天神坂から覚林寺に辿り着くまで、反対側の川岸を目指すかのように桜田通りを渡って感じること。

過去の記事で、かつて天神坂が覚林寺の参道として、横断歩道なくして、機能していたことに触れてみた。また、ここに、食い違った道を貫通し、現桜田通りが開削され、昭和30年代末に拡幅工事がなされたこと。明治時代にまで遡ることは荷が重いが、昭和30年代末の拡幅工事によって、変化したであろう街の息遣いを探ることができないだろうか、そう思っている。

子供の頃、桜田通り沿いに、何カ所かのネットフェンスが張られた更地があった。当時、忽然と現れる湿り気を帯びた空き地に、何か不思議を感じていたが、桜田通りの拡幅の前と後に思いを致せば、そこにあったいくつかの生活が断ち切られ、どこかに旅立った後の姿だったのだろうか。その代表が、明治時代からあったという白金郵便局の跡地ではなかったのかと思う。ともかく広かった。
壊れた波板トタンの隙間から忍び込み、廃墟のような空き地で遊んだ記憶も、その過渡期のことだったのだろうか。

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