高輪の春に
今上天皇のお代替わりが近い。
天皇、皇后両陛下は上皇、上皇后両陛下として、現在の東宮御所を改修の後、仙洞御所として住まいを移される。その準備のために、港区高輪にある高輪皇族邸(旧高松宮邸)に一時住まいを移されることが報道されている。
かつて高輪の台地を駆け巡った少年の記憶は、すでにこの場に書き遺した。皇族に縁のある土地柄だったが、少年の頃の私と、当時の街の息遣いが両陛下をお迎えする。そんな春の夢をみた。
今上天皇のお代替わりが近い。
天皇、皇后両陛下は上皇、上皇后両陛下として、現在の東宮御所を改修の後、仙洞御所として住まいを移される。その準備のために、港区高輪にある高輪皇族邸(旧高松宮邸)に一時住まいを移されることが報道されている。
かつて高輪の台地を駆け巡った少年の記憶は、すでにこの場に書き遺した。皇族に縁のある土地柄だったが、少年の頃の私と、当時の街の息遣いが両陛下をお迎えする。そんな春の夢をみた。
四季の便りが届くたび、
卓上カレンダーをチェックして思いを巡らす。
今回は夜行バスを駆って、京都を目指した。
桜の盛りを迎える前のこと。
早朝の京都から、近鉄で奈良へ向かう。近鉄奈良駅から、観光客の波が押し寄せる前の東大寺を目指す。東大寺の二月堂で手を合わせ、舞台から大仏殿越しの奈良の市街地を望む。真新しい御朱印帳に御朱印を授かる。
ここからが旅の始まり。
新年度になれば気忙しさも和らぎ、再開できると思っていましたが、一度生活のリズムから外してしまうと暦は進むばかりで。
ともかく再開したいと思います。
表紙のデザインも秋冬ヴァージョンから、夏ヴァージョンに。
(東京ミッドタウン日比谷)
視点は、建築に。
有楽町や日比谷の風景は、丸の内や日本橋のビジネス街ほどのスピード感はないにしろ、時代の歯車が回るように、その表情を変えて来ました。
(三信ビル)
近隣で、最後まで偉容をとどめていた三信ビルが、関東大震災後の都市の歩みの中で育まれた使命を終え、取り壊されてから何年経つでしょうか。(昭和5年(1930)竣工 横河工務所、平成19年(2007)老朽化のため解体 三井広報委員会)
今年、その地に開業した東京ミッドタウン日比谷の一角には、三信ビルの記憶をとどめていることが報道されていました。
歴史上の使命をを終えた建築物と、新たな使命を期待されて創造された新たな空間とを比較することは積極的な意味を持たないかもしれませんが、脳裏に刻まれた記憶と、新たに創造された空間の重なる部分を探しにちょっと訪ねることにしました。
三信ビルの地下にも飲食を中心に店舗がありましたが(私が出没した頃は、ブックスタンド、事務スペースもあった気がする。竣工時には異なる表情を見せたでしょう。三信ビル保存プロジェクトのHPには地階と8階に大食堂があった旨の資料がある。)、その建築物としての「顔」は、建物両翼を貫通するヴォールト天井を有する1-2階吹き抜けのアーケードでした。
東京ミッドタウン日比谷の、地下鉄からのエントランス部分に用意された新しい空間には、ヴォールト天井その意匠と、アーケードとしての機能を引き継ぐ、若しくは写し取ろうという意図が感じられます。三信ビルのアーケード2階の回廊部分の手すりの意匠も復元されていました。回廊は機能的に設置できなかったようですが。
ただ、なにかそこには落ち着かないものを感じます。天井高とスパンのバランスだろうか。結果、アーケードとしての機能というよりも、その風情を残した広大なエントランス空間としての機能が期待されているのかも知れません。
日比谷の映画街の昔、先代の宝塚劇場、薄らと漂う記憶とともに東京ミッドタウン日比谷の地上のエントランスを出る。ゴジラのモニュメントの脇をすり抜けJRのガードに抜ける。
なんと、ゴジラは代替わりしていたらしい。
その先の定食屋、いわさきさん(名前は忘れていた)の前では経営者と思われるご夫婦が立ち話中。先輩に案内されて、日比谷公園の向こう側から訪ねてきたのを思い出す。
そうそう、そういえば、もう二筋ばかり新橋よりにあったいわゆる純喫茶(通り沿いから銘品らしきカップが見えていた)はなくなったような気がするが、再開発の脇で、時計がとまったような一角が残る。
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初日に訪れた。
学芸員資格の講座を修める際、講師の先生から特別展の「初日」に訪れるのは賢明ではないとの助言を頂いた。そこには納得できる理由は存在するのだが、当日、同館で、「浮世絵の歴史」と題するギャラリートーク(分かりやすく言えば、専門家の解説と言うべきか)が予定されており、修了後、特別展も訪ねることにした。
種々の尊像は、それぞれに経典での意味づけ、それに基づくお姿の違いがあった上で、製作時期の時代背景、それを消化して造形化する仏師の感性の違いを感ずるべきなのだろう。
今回の特別展では、運慶とその後継者に関する時間軸上に焦点を絞っていることが成功しているように思える。講学上の網羅的な研究対象というよりも、その一時代をになった仏師の感性を感じさせる空間であった。
■展示内容
第1章 運慶を生んだ系譜-康慶から運慶へ
第2章 運慶の彫刻-その独創性
第3章 運慶風の展開-運慶の息子と周辺の仏師
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旧岩崎家茅町本邸が池之端に残る。
今となって見れば、それは奇跡に等しいかもしれない。
三度目か、四度目かと考えながら、過日再訪した。
訪れるごとに、その空気感も訪れる人々の視線も違うような気がする。
随分と前の話だが、一般公開が始まる前、以前の司法研修所を訪れた際、帰りがけに庭から洋館の室内をヴェランダの窓越しに見たことがある。警備の方に断ったのは、もちろんのこと。
現在は補修工事が施され、天候が良ければ、邸内には明るい陽が差している。洋館が木造の柔らかさを醸し出しているが、2階のヴェランダから、広大な庭を見渡せば(現在は国有地の他、一般の私有地として分割、縮小しているが)、当時のカントリーハウスを模した豊かさは想像に難くない。
ただ、洋館については、私的な生活空間とは捉えられず、和館との機能分離は明確であった。私的生活空間は、その裏に連なる和館のエリアであることが分かるが、その一部が、洋館との接続部分の広間として残されたが、これもまた奇跡であろう。取り壊された和館の生活生活空間に、主とその一家の息遣いを求めたいが、今はもう遅い。
(1994-7東京人「特集湯島岩崎家本邸全公開」を参照)
初代である岩崎彌太郎が、明治11年8月に田辺藩主牧野弼成の屋敷地を買い取り、その後も周囲の家屋を買い足す。牧野弼成の屋敷地には百一坪の平屋の母屋と数棟の付属家が配置されていたが、その八千五百四十余坪から、結果として彌太郎が当主の時に、一万四千四百坪まで買い進められた。彌太郎自身は、明治15年8月に駿河台より移り住む。明治18年2月7日に本邸で没する。
その敷地に、明治26年より三菱合資会社三代目社長を務めていた彌太郎の長男久彌が、コンドルの設計により(和館の棟梁は「念仏喜十」大河内喜十郎)明治29年8月に竣工させる。
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学芸員資格へのアプローチが、仏像ひいては仏教にも軸足があったので、当美術館の「祈りのかたち 仏教美術入門」をテーマにした企画展に心がひかれた。
以下は学芸員的な感性から。
ビジネスビルに収容された美術館で、天井が低いけれど、フロアの見通しはよい。そこに設定された展示室を回ることで、順路は確保される。
何より特筆すべきは、通常展示ケース内にある、カード形式のキャプションが、当美術館のオリジナルだろうか、半透明の樹脂板に印刷され、展示ケースのガラスに貼付されているように見えた。
展示ケース内にピン止めされているよりは当然、視認性が格段に優れている。その内容も、図版のビジュアル表現も持ち込み、意欲的な取り組みだと感じた。
展示ケース内の作品と、キャプションとの一覧性には議論があるかもしれないが、作品の全体像を把握する手引きだとすれば、作品を見る前段階として、キャプションにより導入されることは抵抗がない。
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■ギャラリー「風の休日」に掲載記事(2008.5.18)
前回の、高輪*建築の幻影は個人的思い入れですので、ー度だけと考えていましたが、別角度のショットをもう一回だけ、その2です。
詳細は、前回の投稿に譲りますが、写真正面が、品川駅前のホテルパシィフィック東京になります。
この斜面に水路(らしき景色)は続きますが、その先には高輪南町御用邸がありました。
傾斜地の下にある石組み(建築の風景*高輪の幻影 前・後編)まで続いていた水路は、傾斜地の途中の湧水を、その直下の池に導いたように思えます。
その敷地を包含していた薩摩藩下屋敷の建築物の配置は材料がありませんが、その配置が、残された地形の造園に何かしらの影響を及ぼしていることは確かでしょう。
この造園の痕跡がどこまで遡れるものなのかが、関心の的です。
その鍵は、やはり木子文庫にあるのですが、個人的に、すっきりできたら報告できると思います。
課題を残しているのですが、それもまた楽し...(^^ゞ
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■ギャラリー「風の休日」に掲載記事(2008.5.9)
去る5月4日に、清正公大祭に合わせて高輪を再訪。
幼少期には、子供の日に絡むお祭りなので、年中行事として楽しみでした。
その後、川越の住人となってからも、近隣の散歩をすることが目的で、このような機会を見つけて時折訪れます。
ここは品川駅前の一角にある「高輪森の公園」というところ。
薩摩藩下屋敷から高輪南町御用邸までの歴史をまとっているところです。
何度か訪れることになりましたが、敷地内の樹木が整理されたとともに、少し荒れてしまったようで、その全体を包み込む空気感が失われたようです。
写真はその一部ですが、傾斜地にある公園の頂上付近から、枯山水のような遺構が続き、その麓にあたる公園の正面部分には、思わず歩みを止めるような大きな石組みが残ります。
それは、斜面途中からの湧水を、水路に沿って導いたように見えます。(写真の右から左へ。)
ネットフェンスの向こう側には、切り取られた敷地が続いていたわけですが、水路を渡る飛び石は、その奥まで続いていた様にも見えます。
また、頂上部分には東屋の痕跡を見ることができます。それは、小石の混ざった洗い出しのような床で、掘っ立て柱の跡が残る...。
散策の途中、東屋から飛び石を渡り、ネットフェンスの向こう側に続いていた敷地の奥に向って散策する、当時の主の後姿が見えるようです。まるで幻影のように。
当blogの本店である「川越の風」で、「建築の風景*高輪の息遣い2」を纏める際に、歴史の痕跡を探し歩いた折、出会った場所です。その後、「建築の風景*高輪の幻影(前・後編)」で一歩踏み込んで触れてみました。
四方を、それぞれの地権者に囲まれたこの小高い丘を中心とした公園は、明治以降の歴史のうねりの中で取り残されたポケットのようです。
詳細な考証があってしかるべきかと思いますが、今のところ、ほんの入口程度で...(¨;)。
少し落ち着いたら、ディテールをもう少し掘り下げる...つもりです。
それにしても、月1ペースか...(^^ゞ
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