路地の風景

2016年5月31日 (火)

点描*築地市場まつり

記事が途切れていましたが、言い訳は抜きにして、これはどうにか月内の記事にしようと思います。開場から81年を経過し、惜しまれつつも本年11月2日に業務を終了する築地場内市場に、5月3日開催された「築地市場まつり」を訪ねました。 2016_050301_2

2016_050309_3大正12年9月関東大震災で被災した日本橋魚河岸をはじめとする諸市場が、業者間の調整を乗り越え、昭和10年に東京市中央卸売市場としてスタートしたことが、都市機能のひとつの息吹となった。

2016_050312_2各種賑わいを見せる屋外のイベントをのぞいた後は、休業日でひとけのない、仲買の方々が店を連ねる通路をのぞいて回る。

2016_050308営業日の場内とは違う顔を見せているのは当然だが、その歴史を閉じるのが目前となった今、場内からは、人間の営みの精気が解き放され、人の息遣いが消 えようとしている。
そしてまた、そこには都市の脈動を感じる変化が訪れる。 (とは思いつつ、最後には、「築地市場まつり」の練り物詰め放題500円に挑戦して帰ることにした)

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2014年6月 2日 (月)

閑話*坂の記憶

5月の連休に、思いつくまま都内の街歩きに出掛けた。
いつかのように、少年時代を過ごした高輪にも立ち寄る。ここで過ごした時代の記憶は、かすんだり、すり減ったりしない。時々、引き出しから出してみると、そう思う。

高輪の台地には、峰を南北に走る二本榎通りをピークとして、東と西両側に下る、名前のついている坂道や、細い曲がりくねった生活の路地が延びている。時が経ち、昔の面影は大きく失われた。その間、居住者が変わり、生活の息遣いも変わった。変わらないものを求めて歩く様な気もする。それは、記憶の中にあるのだが。

二本榎の商店街、今は姿を変えたが、その中途に豆腐屋さんがあったことを思い出す。ナショナルショップのとなり。大きな窓越しに、水を張った大きな桶が見えた。ステンレス製だったろうか、出来上がった豆腐が泳がせてあった。

あるとき、通りの向かい側からふと見上げると、そこには、豆腐店の看板が残されていた。店舗スペースは他の業態になっているが、申し訳なさそうに銅ぶきの看板に、豆腐店の名前が貼り付けたように浮き上がっている。すっかりさびて変色しているが、今回も変わらずそこに残っていた。同じような、看板の痕跡が、輪業、自転車やさん、鮮魚店の名前があったが、今回は見落としてきた。

坂の話しに戻れば、二本榎の商店街を歩けば、東西に坂は下る。坂の上から見る景色は、どこか知らない町のようにも見える。
今回、その坂を下った国道沿いを歩きながら、二本榎通りに至る、緩い勾配の坂道を見上げて見ると、ふと気がついた。

何故か、そこにあった息遣いが感じられた。その緩い勾配が、記憶を呼び覚ますのだろうか。何かが残っているか、期待をしていないところだったが、その坂道の幅と勾配の記憶は、その道を辿った息遣いとともに仕舞われていたようだ。

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2010年5月23日 (日)

月島*街歩き編

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5月22日に開催された、東京メトロ主催の「東京まちさんぽ」のゴール地点として、十数年ぶりに月島を訪れました。ゴールの後、ランチの算段をしながら、のんびりと近辺を歩き回りました。

佃には、僅かに漁師町の面影を感じることができますが、隣接する月島は、埋め立て地の歴史を纏い、そこには軒を触れあう下町が残っています。空を見上げれば、臨海部(ウオーターフロントと言うべきか)には、至る所で高層マンションが視界に入りますが、商店街の一筋裏手には、軒を触れあう生活の息遣いが残っています。

町の中央に軒を並べる商店街は、アーケードの上を見上げると、歴史を感じる看板建築が残っていたりもします。(↑写真)

今でこそ、もんじゃ屋さんが盛況ですが、地域を支えてきた歴史のある商店街であったことが伺われます。商店街を歩いていると、あることに気づきました。数軒の個人商店の本屋さんが健在であること。様々な理由で、街から間口の狭い小さな書店が消えて行きますが、この街では生き残っています。その、街の息遣いとは何だろう。そこに残っているものと、私たちの街で失われたものは何かと考えます。

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「交番」の統廃合の結果、「地域安全センター」として活用されているものらしい。赤色灯から青色灯に変更されている。 

 

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月島駅近くのアイマークタワー1階(左側奥)にある「美酒佳肴 らかん」さんのランチで850円也。
但し、土曜日のランチ営業は不定期とのこと。

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商店街の一筋裏手の風景。
なんと描写したものか、天を突くエネルギーは解釈を差し挟まない...。 

 

 

 

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2010年3月14日 (日)

日本橋*江戸橋倉庫ビル(三菱倉庫)

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先の記事に取り上げた山二証券に引き続き、東京証券取引所の裏を通り抜け、首都高の下を左に折れると、三菱倉庫の江戸橋倉庫ビルに遭遇しました。正直、偶然ではあったのですが。

何度となく写真だけは目にしていた物件ですが、表現派風の意匠で有名な建築物です。三菱倉庫さんのHPによると、その改築計画があるということで「東京・日本橋に環境対応型の高層オフィスビルを建設-東京都選定歴史的建造物である現在の建物「江戸橋倉庫ビル」の外観を保存しながら安全・安心・快適さを追及した賃貸オフィスを提供-」とあります。2011年10月着工とのこと。表現としては「低層部を東京都選定歴史的建造物として活かし、基壇部の自然石、曲面壁を含む既存外壁の概ね7割および船橋状塔屋を保存し上部に高層棟を築造することにより建設します。」とあり、掲載されている竣工後の外観図を見ると、その概要は読み取れます。オリジナルの意匠を残した高層棟の建設は、結果としてはなかなか難しいのが現実のようですが、ランドマークとして、再び時代を刻み続けることができればと思います。

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オリジナルに話を戻せば、1930年(昭和5年)の竣工であり、関東大震災の前、現在の昭和通りに掛けて所有していたレンガ造りの倉庫(「三菱の七ツ蔵」)の敷地に、復興事業として昭和通りが敷設されることになったことから、被災した倉庫を整理統合して建設されたとあります。
その艦橋を思わせるシルエットを有する塔屋は個性を発揮していますが、上層階に半円形に張り出すバルコニーも何故か心を捉えて離しません。
復興事業の潮流の中、このようなビルを纏めた想像力とエネルギーに思いを致すところです。中身もちょっと見たいところですが。

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2010年3月13日 (土)

日本橋兜町*山二証券

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日本橋近辺を歩く機会がありました。偶然に巡り会うことができるものは数知れないというのが、正直なところ。その出会いと同時に、鞄の中でデジカメを探っているのが習性でもあります。

今回は、東京証券取引所裏の一角に個性を放っていた山二証券の社屋です。外観に、スパニッシュの香りが漂う中、小規模な事務所ビルとしては、一階部分の石張りと二階以上のタイル貼りのコントラストには軽快さを、三階の小さなバルコニー付きの意匠には時代を感じるところです。

来歴としては、設計は西村好時、竣工は昭和11(1936)年6月との紹介がネット上で見られます。西村好時氏については古典様式の使い手とともに、銀行建築の大家という評価がありますが、小規模ながら自由な作風を感じます。年代的には(大正末期との指摘もあり)関東大震災復興の後期というところでしょうか、昭和10年代まで続く、様々な復興の潮流の中で生まれているようです。

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2008年11月 9日 (日)

九段下*震災復興の記憶

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11月1日の散歩は、目白台の坂道を押さえた後に、早稲田から東西線で九段下へ。
ここから、目的の神保町の古本市までは目と鼻の先なので、地上に出て古本屋街を目指します。

九段下ビル(↑)は、その途中にあります。というよりは、まだ在りました。その前を通りかかる度に思いますが、通り過ぎながら、どこか安心している自分がいるような気もします。そんな場所がいくつかあります。

この機会に背景を、資料から再度確認してみました。
竣工1927年(昭和2年)8月、設計は南省吾、震災復興期の建築のひとつですね。当時の姿を止める貴重な痕跡と言えるでしょう。
震災復興においては、帝都復興院の流れをくむ復興局が主体でしたが、九段下ビル(旧今川小路協同建築)には東京市、横浜市と民間の共同運営により実現した復興建築助成株式会社が関与しています。
震災復興期において、都市の耐火耐震建築の促進、土地の有効利用の促進の観点から、「共同建築」が促進されましたが、それは商店建築から始まりました。
具体的には、今川小路共同建築は1階に店舗、2階には各戸内の階段で繋がる居室を配し、2箇所の独立した共有階段で上がる3階は貸室として設定されていました。
復興局からの補助金と復興建築助成株式会社の割賦販売方式による助成という枠組みの下で、施主8名での実行となりましたが、その他のケースにおいては、更に小規模で、共同建築については多くの実績を挙げるには至らなかったということです。

九段下ビル(旧今川小路協同建築)は81年目を経過しました。

*参照資料*「復興建築助成株式会社による関東大震災復興期の『共同建築』の復興プロセスと空間構成に関する研究」(佰木まどか・伊藤裕久)

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2008年11月 2日 (日)

目白台*富士見坂界隈

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願ってもない好天の11月1日。
背中を押されるようにカメラを担いで街に出ました。
神保町で古本市をやっていますので、目的は定まったけれど、行き着くまでにいくつか寄り道をすることに。

まずは、開通して間もない地下鉄副都心線で雑司ヶ谷へ。
川越からは、ホームでの乗り継ぎだけで渋谷までのルートが開けましたが、地下鉄内の急行運転も、未だ新鮮な驚きです。本日は各停で、雑司ヶ谷駅下車。
地上に上がれば、都電の停留所と遭遇します。停留所脇を左折し、鬼子母神の参道を辿りながら目白通りへ向かいます。

これまで、同じく目白台の幽霊坂と胸突坂は、細川邸の歴史を手繰りながら訪れることができましたが、今回は、いろいろな媒体で取り上げられる富士見坂と日無坂のY字の坂景色を目指しました。(↑)往路に撮影したものの、好天の日中で陰影がきつい写真になったもので復路に再挑戦し、夕景になっています。

20081101mejirodai_004450_2 目白通りから富士見坂(途中から日無坂へ)を下る、その角には鳳山酒店さんが構えています(←)。
その手前を右手に折れれば富士見坂(↑)ですが、その商家の風情に足を止めざるを得ません。
周囲は外装材でリフォームされていますが、ファサードは、大正期の商家らしい出し桁造りの面持ちです。20081101mejirodai_005600
戦災をくぐり抜け、地元の商店として生き残ってきたものと想像できますが、店内の様子も、長年、顧客の信頼に応えてきた自信も窺われます。
外からも目に入る、店内の大きな時計が時を刻んでいました。

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2008年4月 1日 (火)

千鳥ヶ淵*片隅に咲く

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千鳥ヶ淵から北の丸を抜ける石垣の道を歩く。

歩みが心地よい土の小径を大手町まで。

道を遮るように張り出した太い幹に咲く、二輪の桜。



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2007年6月10日 (日)

路地の風景*浦和・街角の写場

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金曜日、浦和の埼玉県庁に出掛けました。
昨年末に取得した資格の関係で、何かと段取りが続いていましたが、ようやっと一段落です。

浦和駅から埼玉県庁に向かうルートはいくつかありますが、裏道のような狭い路地が続く古い商店街がお好みです。
結局は、このルートが最短距離なような気もします。
地元の来歴はあまり理解していないのですが、商店街沿いに駅から離れると、古い商家も散見され、脇道が気になる街でもあります。

そこで、脇道の奥に見つけたのが鈴木写真館。
写真館というか、写場という感じが漂っています。
素直に見れば、昭和ひと桁頃の建築物と見えますが、どうでしょう。
今はアルミのサッシュですが、木製か鋼製のサッシュが入っている姿を容易に想像できますね。

鞄に忍ばせたコンパクトデジカメが役に立ちます...(^^ゞ

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2007年1月15日 (月)

路地の風景*寛永寺坂の幻影

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昨年、上野、谷根千あたり歩き回った際、気になって捜してみた風景です。
引き出しに仕舞ってしまうと安心し、つい忘れていました。
危うく、お蔵入りになってしまうところでした。

その正体は、ネットでも多く紹介されていますが、日暮里を出た後、上野の山の地下を走る京成電鉄の廃止された「地下駅」の跡です。
「寛永寺坂駅」という名称でしたが、上野寛永寺は目と鼻の先で、
住所は台東区上野桜木、谷中霊園の入口脇です。

同じく、京成電鉄の地下駅として近年まで営業していた「博物館動物園駅」(H9休止、H16廃止)は、「東京国立博物館」の敷地の角にある、国会議事堂のようなデザインの駅舎が有名です。
双方とも、1933(S8).12.10に開業していますが、「寛永寺坂駅」は、休業再開の期間を含め、1947(S22).8.21の廃止まで足掛け14年という運命の違いがあったようです。

*駅の来歴については Wikipediaを参照。   
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細部を眺めると、通りを背に正対した側ではなく、左脇にある敷地境界に突き出した屋根と、不自然に「斜め」に位置する古いシャッターが気になります。(写真↑)
地下ホームへ(取り壊されているそうですが)降りる階段の位置などは不明ですが、正面の通りと駅舎の間の乗客の動線を配慮した出入口の位置設定なのではないかと想像されますが、どうでしょうか。P0003600_1
また、敷地の一角には、
正面に「国威宣揚」とある、国旗掲揚台があります。
その脇には、「紀元二千六百年記念」「昭和十六年十二月八日」とありました。
また、見落としましたが、建立した地元の町会名(だったと思いますが)もあるそうです。
谷中霊園の入口に位置し、寛永寺の目前にある駅前の広場は、当時の地元の方にとって、重要な意味があったのでしょうか。

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