12日(日)より3回連続で、「川越の建物」をテーマとした市立博物館の歴史講座があります。
第1回は近代建築がテーマで、川越における歴史を体系立てて再認識することが出来ました。
その中でも今回の成果は、①旧第八十五銀行本店(埼玉りそな銀行川越支店)、並びに②旧山吉デパート(いずれも蔵造りの街並;一番街)について、設計者を保岡勝也と改めて確認したことでした。
貴重な近代建築群ではありますが、これまで、著名建築家との関連をあまりイメージしていませんでしたので、目の前に新しいイメージが広がることになりました。
保岡勝也は、1900(M33)年、岩崎久彌が第3代社長を務める三菱合資会社に入社しました。遡ること1890(M23)年には、商法施行前の三菱社が、前年、政府より一括払い下げを受けた丸の内の開発のために「丸ノ内建設所」を設置し、東京駅前(正確には出来る前)の賃貸用ビジネスビルの開発が始まりました。
顧問となったJ.コンドルの手でよって、1894(M27)年には、現在の馬場先門に至る馬場先通りに、第1号館が竣工しています。
それに続く開発は「一丁ロンドン」を形成しますが、その後、開発は曽禰達蔵に引き継がれ、第7号館が1904(M37)年に竣工しています。
保岡勝也は、曽禰達蔵の退社後、技師長としてその後の開発を指揮し、1912(M45)年の退社までに、第8号館から第20号館までの設計を終えています。丸の内仲通りの赤煉瓦街(構造は途中からRCを採用)は、保岡によってほぼ完成されたと言われています。
正確には、在職中、第21号館の基本設計までを手がけているのですが、その立面図、写真と、旧第八十五銀行本店(埼玉りそな銀行川越支店)と比べてみますと...。
*藤森照信氏の論文「丸の内をつくった建築家たち-むかし・いま」より引用 。藤森氏の論文によれば、ドームの形状は、その後、実施設計時に変更されているらしい...。
双方をじっと眺めていますと(いささか無理矢理なのも認めますが)、「似てる!」と言うか、同じ遺伝子が、川越の地に、一丁ロンドンに始まる丸の内赤煉瓦街の面影を伝えているような気がしてならないのですが、如何でしょう。
川越は、1893(M26)年の大火からの再建を契機として、耐火建築としての「蔵造り」に脚光が当たったと解説されますが、その反面、煉瓦造の建築物は定着しなかったようです。(日本聖公会川越キリスト教会礼拝堂が現存)
そのような文化の中、保岡勝也によって、結果的として、丸の内煉瓦街の遺伝子が川越にもたらされたとするならば(構造はSRCになりましたが)、歴史の波間から、保岡の歩んだ道の一端が垣間見えるような気がします。
≪旧山吉デパート;中央の仮囲いのある3階建て≫ 廃墟のままですが、ファサードに残るステンドグラスから、往時の雰囲気を伺い知ることができます。旧第八十五銀行本店(現埼玉りそな銀行)は通りを挟んで右手奥。
保岡は、1913(T2)年に個人事務所を開きます。旧第八十五銀行本店は1918(T7)年、旧山吉デパートは1936(S11)年の作品で、しばらく年月がたっていますが、通りをはさんで現存するふたつの建築物に共通する設計者が確認できたことで、認識を新たにしました。
*藤森照信氏の論文「丸の内をつくった建築家たち-むかし・いま」を参照しました。
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